嘘《うそ》つきみーくんと壊《こわ》れたまーちゃん2 善意の指針は悪意 入間人間《いるまひとま》 [#地付き]イラスト†左 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)嘘《うそ》つき |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)流血|沙汰《ざた》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#改ページ] ------------------------------------------------------- [#改ページ] [#ここから3字下げ]  嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん2 善意の指針は悪意    もくじ [#地から5字上げ]18行 一章『続ける終わり』[#地から5字上げ]166行 二章『ぼくが僕であるために』[#地から5字上げ]650行 三章「自己主義に透けた黒を求める夜』[#地から5字上げ]1248行 四章『他人であるが故に』[#地から5字上げ]1942行 五章『手の届く空を見上げて』[#地から5字上げ]2596行 六章 終始『僕がぼくでないために』[#地から5字上げ]3314行  あとがき[#地から5字上げ]3527行 [#ここで字下げ終わり] [#改丁] 「長瀬は僕の何処が好きだった?」  僕が何気なく質問してみると、  長瀬は「まっ」と不明瞭な一声の後、  頬に手を当てる。 「真顔で破廉恥なこと聞く奴め」  僕の動作には言及せず、  長瀬が軽く非難してくる。 「……? 好きな部分があったから 付き合ったわけじゃないのか?」  長瀬は「ぎゃー」と冗談じみた  奇声をあげ、悶える  今にも膝から崩れていきそうに、  身体の重心を失って左右に揺れている。  なんだこいつ、面白い。 「体罰、体罰!」  長瀬が自分の口元から鼻を左手で覆い、  右手で僕の二の腕を断続的に叩いてくる。 「あ、照れてるのか」「追い打ちかけるな!」  長瀬は千鳥足のように  落ち着かない調子で椅子に向かい、  腰から崩れて座り込んだ。  どうしてか自然と、  僕の右手が伸びた。  長瀬は潤んだ眼球を彷徨わせて戸惑い、  けれどもすぐにはにかみ、  僕の手の甲に自分の手を重ねた。 「ひんやりして気持ちいい」 「心に熱を奪われているのだ」 「あはは」と、長瀬は  まんざらでもなさそうな笑い声。  ……迂闊な、  いい雰囲気を  膿み出してしまった。  僕は長瀬の手を除けて、慌てながら右手を引っ込めた。 「失敬、ここは触れ合い禁止広場だった」 「相変わらず要領を得ない日本語ッスね」  長瀬の機嫌は、  さして低調にならなかった。  むしろ、嬉々としているような。 「なんだよ」 「まだ意識はしてくれるんだ」  してないように見えたのか。 [#改ページ] 「で、最初に質問したけど、  最近は変なこととかなかった?」  僕はこの件に付いての言及を一旦打ち切り、  最初の質疑に帰結する。 「そーういえば、みーくんがあんパンを  美味しそうに食べてた。甘いもの嫌いなのに」  あ、それは別の人だから。或いは、僕が別の人なの。 「んーと、みーくんがね」「僕以外にないの?」 「ない! まーちゃんの毎日はみーくんだけなのだ!」  握り拳を揚げて断言した。 「あ、でもこれは、ちょっと変わってるかも」  マユの脳内で豆電球が点ったのか、  握り拳がぶんぶんと振り回される。 「どんな?」 「死体を見つけた」  眼球が膨張したように、  悲鳴と激痛をあげた。  僅か三文字を反芻するのにも  多大な神経の酷使が求められた。 「………………………………………死体?」 「うむ、あれは確実に死んでましたな」  したり顔で、  なんてことのないように、  とんでもないことを  言い放ちやがったまーちゃん。  僕も死にそうだ。 [#改ページ]  自分の為に、またマユを助けよう。この現状から、まーちゃんを。 [#ここから5字下げ]    嘘つきみーくんと      壊れたま〜ちゃん      善意の指針は悪意 [#ここで字下げ終わり] [#改丁] [#ここから3字下げ] 始終『誰《だれ》かが誰かのために失ったものを前にして』 [#ここで字下げ終わり]  死体は何を考えているんだろう。  丁度、お話を伺《うかが》えそうな屍《しかばね》を眺《なが》めて、そんな疑問が浮かんだ。  鼻がむず痒《がゆ》くなる刺激臭《しげきしゅう》と、滴《したた》る血が間を置かずに凝固《ぎようこ》しそうな冷気に包まれた室内は、決して寝心地《ねごこち》に二重丸の付く環境《かんきょう》ではない。不平を、漏《も》らせずとも感じないのだろうか。  個人的な見解では死後であろうと無料だろうと遠慮したい。やっぱり彼の腕の中がいい。肉が腐敗《ふはい》しようとも抱《だ》きしめてほしい。逆の立場だったらご免被《めんこうむ》るけど。  体操着を着ていても違和感ないほどに、お行儀《ぎょうぎ》良く体育座りしている死体は、年齢が両手足の指で表現できそうな女の子。顔の前に手をかざしても、吐息《といき》はかからず目玉もぎょろつかない。首筋に……触《ふ》れてみようとした手は引っ込めた。指紋《しもん》を残すのは後々、面倒《めんどう》になるかもと危惧《きぐ》した。一応、脈ぐらいは測っておこうと思ったのだけど。  とにかく、飾《かざ》り気《け》の一切《いっさい》ないすっびんの死体が目の前にあるのは確かなわけで。  どうしよっかなー。  死体は殺されているから死体だ。病気であれ自分であれ時間であれ、手を下すものがいる。  その中で最たる問題となるのは、他者による死体の製造だ。これについて目撃《もくげき》した場合、民間人は警察のお歴々《れきれき》に通報するのが義務だ。けど、しかし、いや、だけれども。  ……むー。  こめかみを押さえて、嘆息《たんそく》し唸《うな》り、屈伸《くっしん》運動で寒さを紛《まぎ》らわしながら頭を捻《ひね》る。  ……あ、閃《ひらめ》いた。  ぽん、と静寂《せいじゃく》を崩《くず》さない程度に柏手《かしわで》する。  見なかったことにしよう。  面倒《めんどう》事を可能な限りに避《さ》けたいと判断する脳味噌《のうみそ》も、十分に一般人の範疇《はんちゅう》ではないかと思ったりする。主に自身の正当化の為《ため》に。  詰問《きつもん》されると困るあんなことやこんなこともあったりするし、ここは一つなかったということで退散と洒落《しゃれ》込みましょう。がちゃり。  というわけで、善良な人が発見してくれる日を欠伸《あくび》混じりに祈《いの》って、ばいちゃ。  かーえろかえろっと、死人の寝床《ねどこ》に背を向ける。  自分は生きているので、ベッドの上で眠《ねむ》るのが相応なのだ。  ……でも。  今日は月が綺麗《きれい》だから、見物料にお仕置き代行してもいいかも、なーんて。 [#改ページ] 一章『続ける終わり』 [#ここから3字下げ] お父さんとお母さんはともばたらきで、いっつも忙しそうだった。 だから、ほいくしょの帰りはいつも、お隣の男の子が迎えにきてくれた。 男の子はわたしの手を握ってくれて、お兄ちゃんみたい。 「おかーさん帰ってくるまで、みーくんの部屋行っていい?」 わたしは男の子を、みーくんって呼んでる。 みちざね君ってみんなが呼んでるから、わたしだけ、特別。 「いいよ。でもその前に、お母さんに連絡しとくんだよ」 みーくんのおっきい目玉が線になって、笑いかけてくれる。 わたしが好きな、みーくんの顔。 その後に、頭を撫でてくれるのも好き。 みーくんはとっても優しくて、大好き。 ……なのに。 [#ここで字下げ終わり]  皮が剥《む》けた。  現在、病室内で頭部に包帯を巻いた御園《みその》マユが、僕の横たわるベッドの脇《わき》で林檎《りんご》の皮剥きを終えたという状況《じょうきょう》から一点だけ抽出《ちゅうしゅつ》してみたけれど、さしたる意味はない。余談だけど、この林檎は見舞《みまい》品じゃなくて、マユが自腹を切って購入《こうにゅう》したものだ。見舞の定番である林檎、ないこともなかったんだけど。まあ、いいや。  マユは一繋《ひとつな》がりの赤い皮膚を平皿に落とし、ナイフを彫刻刀《ちょうこくとう》のように持ち替える。それから「なにがいい?」と、施《ほどこ》す細工の内容を控《ひか》えめな声で尋《たず》ねてくる。僕は脳味噌《のうみそ》にばかり経験を積ませることを制し、唇《くちびる》の自主性を尊重した。 「鏡に映った林檎」 「………………?」  まーちゃんの首が傾《かたむ》いた。見かねた脳味噌が指示を飛ばした。 「エリマキトカゲ」 「嫌《いや》。みーくん以外の生き物|嫌《きら》い」 「では林檎を映す鏡」とまたマユの頭を疑問|符《ふ》でいっぱいにする解答は喉元《のどもと》で取り下げた。 「まーちゃんにお任せするよ」  入院中、林檎を食べる前の常套《じょうとう》句を受けてマユは作業を開始する。爪《つめ》の延長上に刃《は》があるように、容易《たやす》い動作で林檎が刻まれていく。手先が器用という褒《ほ》め言葉より、刃物の取り扱《あつか》いに長《た》けているという事実の方が似つかわしい、マユの挙動。  林檎を材料にした創作物の完成を待つ間、僕はマユの手元ではなく頭に視線をやった。今朝方取り替えたのか、包帯が真新しいことに気付く。 「………………………………………」  宿命のライバルとの死闘《しとう》から、一年の十二分の一弱が経過していた。微妙《びみょう》に誇張《こちょう》表現であることはさておき、半ば自業自得《じこうじこく》というか、僕から喧嘩《けんか》をふっかけたのだから半ばという表現は菅原《すがわら》に対して失礼か。とにかく僕は、その菅原に大怪我《おおけが》を負わせられ、欝屈《うっくつ》しそうなほど暇《ひま》を持て余す入院生活を嗜《たしな》んでいた(これも余談だが、今|尚《なお》、奴《やつ》に幼少期の記憶《きおく》の回復する兆《きざ》しはない)。  外気温は息を潜《ひそ》め、逆に僕らの息は白色が付着して自己主張する季節が訪《おとず》れていた。左|腕《うで》は固定が解除され、足も松葉杖《まつばづえ》での移動を許可された。寝《ね》たきりでマユの介護《かいご》を受ける日々は終わった。はいあーんと言われて口を開ける食事風景は失《う》せた。右|利《き》きなのになぁ、僕。  閑話休題《かんわきゅうだい》。で、外は枯木《かれき》が乱雑に立ち並ぶ冬景色《ふゆげしき》となった。入院中の身では、その程度しか生活|環境《かんきょう》に変化がない。後は、同室の人間が多少入れ替わったことと、時折現れる見舞客が安穏《あんのん》で退廃《たいはい》的な生活の表面を波立たせるぐらいだ。……ああ、見舞《みまい》客といえば。  二週間前に、マユの祖父母が訪ねてきた。マユ祖父は身なりの良い紳士《しんし》風。まるで高校時代からあだ名が爺《じい》だったかのように熟練《じゅくれん》と気品の動作が染《し》みついた、自然体な老人だった。マユ祖母はくたびれていない肌《はだ》と髪《かみ》の持ち主で、まるで女学生時代から以下略。  面識がなかったので、最初はどちら様かと目を自黒させた。マユ祖父の方が御園《みその》と名乗ったところで合点《がてん》がいった。 『お噂《うわさ》はかねがね』『マユから聞いてるのかね?』『いえ一度も耳にしてません』『だろうね』  予定調和が成されていたように、淀《よど》みのない会話だった。それから二、三言社交辞令のように怪我《けが》の容態について会話し、締《し》めにマユ祖父が一言『マユとこれからどうするんだね?』と詰問《きつもん》に限りなく寄った質問をしてきた。今こそ『お嬢《じょう》さんを僕に下さい』の出番かと思ったけど、冗談《じょうだん》の通じない御仁《ごじん》であることが濃厚《のうこう》な雰囲気《ふんいき》だったので『可能な限りは彼女の支えでありたいです』と脱臭剤必須《だっしゅうざいひっす》の受け答えに留《とど》まった。マユ祖父はその後、一言だけ質問してきた。そして五分ほどして二人は病室を後にした。マユ祖母は終始口を開かず、会釈《えしゃく》もなかった。  次に白衣|抜《ぬ》きの恋日《こいび》先生が仏頂面《ぶっちょうづら》で姿を現し、僕を七発|殴打《おうだ》(グーが四、パーが三の割合)して、古い医療漫画《いりょうまんが》全巻を土産《みやげ》に置いて去った。命の尊さを学べ、と解釈《かいしゃく》することにした。  そして御園マユ。この子は、見舞じゃないんだよな。 「できた」と、マユがナイフをサイドボードに置き、皿を僕へ差し出す。  その上に、中央あたりが細く削《けず》り取られ、団子《だんご》が重ねて置かれているような手垢《てあか》だらけの林檎《りんご》が逆さまに鎮座《ちんざ》している。今度は僕が首を捻《ひね》る番だった。 「なにこれ。瓢箪《ひようたん》?」 「雪だるま」  制作者は事もなげに言った。  ……うん、いやまぁ、生き物ではないよな。黙《だま》ってありがたく頂くことにした。歯を突《っ》き立て、丸齧《まるかじ》る。 「美味《おい》しい?」 「うん最高、まーちゃんの手垢が味を引き締《し》めてるよね」と別の病院に転移を勧《すす》められそうな感想を無難に口にしてみた。マユが嬉《うれ》しそうに頬《ほお》を緩《ゆる》めたので、言った甲斐《かい》はあった。 「まーちゃんも食べる?」「うん」  林檎の反対側にマユが齧りつき、咀嚼《そしゃく》し始める。シャリシャリと音が立ち、同室の方々の視線が集《つど》う。隣《となり》のベッドの度会《わたらい》さんは少し腰《こし》が引けている。  ……妙《みょう》だ。やっている内容は、二つのストローで一つの茶を啜《すす》る恋人達と同様なのに、何かが違うう。目と目がこんなにも近いのに、これでは恋人の甘い一時というより家屋を齧る白蟻《しろあり》ではないか。ガジガジ。  そして、林檎《りんご》の画期的な食事法を研究していると、配膳《はいぜん》車を押す音が廊下《ろうか》から鳴り、こちらへ近づいてきた。それだけで昼食の時間だと胃腸が理解する。  扉《とびら》が開き、昼食を運んできた看護師さんは何時《いつ》でもテンションが高い女性で、皆《みな》に活気と幾ばくかの疲労《ひろう》を提供している。 「バカップルっつーかただのバカにしか見えないキミ達、飯食え」  看護師さんの言葉は呆《あき》れを多分に含《ふく》みながらも、表情は微笑ましそうだった。  指示通りに林檎を皿へ戻《もど》し、二人分のトレイを受け取る。  そう、マユの分の食事も配給される。勿論《もちろん》、ここはマユの病室じゃない。  だけど、患者《かんじゃ》の要望は可能な限り叶《かな》えるものだ。  そう、今現在、マユもこの病院に入院しているのだ。  マユの頭部には真新しい包帯が幾重《いくえ》にも巻き付いている。勿論それは考えるまでもなく怪我《けが》をしたからであり、当然のことながら負傷を療養《りょうよう》する為《ため》に入院しているのであり、言うまでもなく自傷|行為《こうい》に及《およ》んだ結果である。  マユは、花瓶《かびん》で頭を殴《なぐ》ってその足で病院に来て、入院すると血だらけで宣言したらしい。  僕に、毎日お見舞《みまい》に来るのはやめて、偶《たま》には学校行こうねーと諭《さと》されたから。  だから、彼女なりに思案し、その行為に及んだのだろう。  マユは自分なりにベストを尽《つ》くしたのである。その健闘《けんとう》を讃《たた》え、僕の胸に響《ひび》いたその想《おも》いに準じて褒《ほ》めちぎった、のは流石《さすが》に大嘘である。久方ぶりに、猿では多少難儀《なんぎ》な反省をしてしまった。 「みーくん」と、マユに服の袖《そで》を引っ張られて意識が外側に移る。 「これ食べて」  マユがしかめ面《つら》でコーンサラダを僕に渡《わた》す。マユは好き嫌《きら》いが激しい。 「任せとけ」  僕は受け取り、三秒その小皿の中身を眺《なが》め、ひとまずトレイに置いた。  僕も好き嫌いが激しい。  隣《となり》のベッドに居座っている度会《わたらい》さんという、死《し》に際《ぎわ》、エロ本を遺産として託《たく》しそうなぐらい好々爺《こうこうや》している人に差し出せば快諾《かいだく》して食べてくれるけど、看護師さんがいてはそれも許されない。残飯なるものをこよなく嫌《きら》う、学園の食堂のおばさんみたいな人である。  だから最近は、配膳を終えた看護師さんが病室を離《はな》れた頃合《ころあ》いに不法|投棄《とうき》を試みている。もっとも、勿体《もったい》ないお化けを恐《おそ》れる度会さんが「すてるならくれ」とそれを食べてしまうのだけど、僕としては止めようがない。  開いた扉《とびら》から覗《のぞ》ける《ろうか》を、スーツ姿の若人《わこうど》二人が駆《か》けていく。病院の廊下を走って咎《とが》められないとは、彼らの立場に若干《じゃっかん》の興味が湧《わ》く。  そういえば今日は朝方から、病院全体が騒々《そうぞう》しく、落ち着かない。そのことについて、看護師さんに尋《たず》ねてみた。 「なんか、騒《さわ》がしいですね。大きな事故でもあったんですか?」 「んー? 患者《かんじや》が一人、昨日の朝から行方《ゆくえ》知れずで探してるの」 「……失踪《しっそう》、ですか」 「神経質なご両親が警察|沙汰《ざた》に騒ぎ立ててさ、律儀《りちぎ》にウチまでご出勤してるわけ。仕事の邪魔《じゃま》なんだけど」  毒づきながら、ワゴンを押して廊下《ろうか》へ出ていく。後ろ手に扉《とびら》を閉める間際《まぎわ》、「残すなよー」と一言付け加えて。  ……行方不明の患者、か。  何だか、随分《ずいぶん》と泥《どろ》より生臭《なまぐさ》い物の匂《にお》いが目立つ街と化している気がするのは、杞憂《きゆう》かな。 「ねぇ」  くいくいとマユに袖《そで》を引っ張られる。振《ふ》り向くと、能面顔がしかめ面《つら》を被《かぶ》っていた。 「どしたの?」「今の女、嫌《きら》い」  気持ち小声で、マユは露骨《ろこつ》な嫌悪《けんお》感を吐《は》き出す。  恋日《こいび》先生に向ける負の感情とは、また少し趣《おもむき》の違《ちが》う、生理的な否定。 「ふぅん、気に障《さわ》ることとかあった?」 「別になんとなく。あんまり話とかしない方がいいよ」  根拠《こんきょ》がなくても迷いと揺《ゆ》らぎのない、マユの忠告を僕は「分かった」と適当に受け止める。  それから、マユが掴《つか》む二本の箸《はし》が煮物《にもの》を摘《つま》み、僕の口に向けられた。  マユは余所《よそ》行きの表情のまま、「あーん」とか命じてくる。  実は全く終わっていなかったりする。 「……いや、僕もほら、手は動くようになったし」「口開けて」「……あが」  結局僕は、口を馬鹿《ばか》みたいに開く。  結局僕は、『みーくん』のままでここにいる。  患者が一人、行方不明。  その事件は当初、僕にとって問題となるべき事柄《ことがら》ではなかった。  翌日に起きた出来事の方がよっぽど衝撃《しょうげき》的だった。  長瀬透《ながせとおる》が、僕の下《もと》に現れた。  長瀬透は僕と同学年で、名前の印象とは裏腹に女子高生で、一年生の頃《ころ》は同じクラスで、短期間だけバカップルしていた、元彼女だった。  昼下がり、昼寝《ひるね》に余念のないマユを傍《かたわ》らに医療《いりょう》の尊さと印税についてを漫画《まんが》で学習していた僕は、一年以上も交流の途絶《とだ》えていた来訪者の姿を認めて目下の血の気が引いた。  制服姿の長瀬《ながせ》が緩《ゆる》やかな歩調で距離《きょり》を詰《つ》めてくる。同部屋の高校生や中年が、それを目で追いかける。「また女が見舞《みまい》かよ」と、誰《だれ》かの愚痴《ぐち》が耳に届いた。ちなみに僕がいるのは四人部屋で、内訳は僕と度会《わたらい》さん、軽薄《けいはく》そうなニキビ、もとい高校生、無口な中年という面子《めんつ》である。  長瀬が僕の正面に直立し、一年前とは少し異なる笑い方をした。 「よッス」  曖昧《あいまい》に、距離を掴《つか》みかねている笑顔《えがお》。  僕の目にそれは、とか冷静な解析《かいせき》出来る精神状態ではなかった。緊張《きんちょう》に伴《ともな》う内臓全体の圧迫《あっぱく》が胃液の味を口に広がらせる。彼女の変更《へんこう》されていない口調も、それに拍車《はくしゃ》をかける。  何故《なぜ》、と二文字が疑問の川を逆流する。長瀬の妹の見舞に来るなら理解する、けど、何で僕の下《もと》に足を運んでるんだよ。学校の教師共は何を教育してるんだ。 「……長瀬さん?」「ッス」「透《とおる》さん?」「今は違《ちが》うッス」  約束、と長瀬の唇《くちびる》が蠢《うごめ》く。ああ、そっか、そっか。 「顔色悪いッスね」 「よ、容態が急変したのだ」  長瀬は手の平をスカートで拭《ぬぐ》い、足をもつれ気味にしてベッドの脇《わき》に回る。そこで、僕の腕《うで》を抱《だ》き枕《まくら》にして惰眠《だみん》を貧《むさぼ》っているマユに気付いたらしい。瞼《まぶた》の開閉速度が上昇した。便乗して僕も背筋に冷や汗が噴《ふ》き出た。今、マユがお目覚めになられたら道端《みちばた》の雑草を踏《ふ》み潰《つぶ》すより容易《たやす》く僕の息の根をお止めになられる公算が強い。 「外行こう」  そう提案し、長瀬の意見を待たずに準備に入った。漫画《まんが》を放《ほう》り出し、マユの手足を慎重《しんちょう》に引《ひ》っ剥《ぺ》がして松葉杖《まつばづえ》を取る。足回りの一段階大きいスリッパを左足だけ履《は》き、名ばかりの防寒具であるジャケットを羽織って、競歩の気概《きがい》で病室を出た。入り口で振《ふ》り返ると、布団《ふとん》が友達の度会さんが呆然《ぼうぜん》と、尖《とが》りのない驚愕《きょうがく》を浮かべて僕らを見送っていた。僕の女性関係に恐《おそ》れを成しているようだ。嘘《うそ》だけど、と。よし、平静を手繰《たぐ》り寄せ始めている。  長瀬は急ぐそぶりもなく、あっさりと僕の隣《となり》に迫いつく。 「忙《せわ》しないッスよ」  淀《よど》みのある僕の様子を客観視して、逆に落ち着いたらしい。声には余裕《よゆう》さえ窺える。 「誰の所為《せい》だと思ってるんだよ」 「自分の所為だとは思いたくないッスねぇ」  紳々《しゃくしゃく》な台詞《せりふ》を返してきた。僕は流し目で一瞥《いちべつ》し、唇は開かない。 「でも、外に出るなら上着の一枚も貸してくれるかと期待したッスけど」  僅《わず》かに毒を忍《しの》ばせた、長瀬《ながせ》の明るい失望。  そこまで気と血と頭が巡《めぐ》っていなかった。ついでに、感情も。 「おや、バツの悪そうな表情。見舞《みまい》に来てみただけなのに、気を遣《つか》わせて悪いッスね」  本当だよ。というか、今日も清く正しく学校生活を送ってきたのなら、通学用に準備しとけばいいのに、と心の内で毒を小さじ一||杯《ぱい》分、精製した。  廊下《ろうか》の突《つ》き当たりの階段を昇降《しょうこう》どちらにするか悩《なや》み、大差ないと結論づけて屋上へ向かうことにした。一段|登《のぼ》るごとに手間|暇《ひま》をかける松葉杖《まつばづえ》の僕を心配したのか見かねたのか、「手伝おうか?」と長瀬は親切を差し伸《の》べてくれたけど、丁重にお断りした。ただ、屋上への扉《とびら》は長瀬が開いた。  屋上に出るのは、入院生活で二度目だった。その、敷地《しきち》内で最も字宙に近寄った場所は、寂《さび》れた黄緑色のベンチと、大量の洗濯《せんたく》物が冷風に晒《さら》されていた。そこへ、晒される者二名が追加される。天候は雲一つない青空と太陽の取り合わせなのに、身震《みぶる》いする寒気が降り注いでいるようだった。当然、僕ら以外に人気はなかった。だから丁度いいのかも。 「ざびいっず」  鼻水を啜《すす》りながら長瀬が不満を訴《うった》えてきた。スカートの下の太股《ふともも》を摺《す》り合わせている。 「喫茶《きっさ》室を希望するッス。自分は水だけでも我慢《がまん》するッス」 「駄目《だめ》だ。友達とかに噂《うわさ》されると恥《は》ずかしい」 「思春期入門したての中学生ッスかあんたは……」  長瀬は呆《あき》れ半ばに諦《あきら》め、僕と隣接《りんせつ》してベンチに腰《こし》かけた。ベンチは二人分の体重を支え、仰仰《ぎょうぎょう》しく軋《きし》んだ。長瀬の尻《しり》に敷《し》かれた時の方が、音量が賑《にぎ》やかだったのは空耳《そらみみ》だろう。  深々と深呼吸する。氷の極を餅んだような空気を肺に諸め、身体《からだ》の内側に瀞まっていた膿のような心労を吐《は》き出すよう努める。何度か繰《く》り返し、引きつり気味だった四肢《しし》も自然体に復帰させた。  そして、僕の落ち着きを見計らい、長瀬が口を開く。 「透《とおる》が元気そうで良かったッスよ」  長瀬透は、僕のことを『透』と呼ぶ。ついでに妹の長瀬一樹《いつき》も姉を真似《まね》て、僕を『とーる』と呼ぶ。僕と名前を交換《こうかん》する遊びをして以来、それはまだ継続《けいぞく》しているらしい。  ××と透。互《たが》いの不似合いな名称《めいしょう》が、打ち解ける切っかけとなった。 「一樹から聞いたの?」 「うん」と長瀬は頷《うなず》く。  長瀬の妹、長瀬一樹(こいつは、自身の名前を気に入っている)はこの病院の常連さんだ。といっても病弱な子ではない。多種のスポーツや空手等々を習い学び遊び、その結果として骨折《こっせつ》や捻挫《ねんざ》の回数が多いのだ。今も左|腕《うで》を療養《りょうよう》すべく入院している。互いに顔見知っているので、僕が入院してからも、何度か顔を合わせている。  来年で五年生と話していたから、浩太《こうた》君と同い年になるわけだ。  あの子達は元気に学校へ行ってるのかな。 「つーか、なんで怪我《けが》したッスか?」  風にそよぐシーツやタオルを目で追いかけながら、長瀬《ながせ》が質問してきた。 「夜の校舎の硝子《がらす》を素手《すで》で割ろうとして失敗した。足の方は欠片《かけら》を踏んだ」 「だせー」  微塵《みじん》も信用を勝ち得ていない、素っ気なさで塗《ぬ》り固めた口調だった。  向かい風が吹《ふ》き、長瀬の付けているコロンの匂《にお》いが微《かす》かに鼻孔《びこう》をくすぐる。 「で、どんな用?」  かさついた唇《くちびる》と、張り付く喉《のど》が発音を邪魔《じゃま》する。風の音に紛《まぎ》れず、伝わっただろうか。 「用って? お見舞《みまい》に来ただけッスよ」  長瀬は気負いも萎縮《いしゅく》もなく、ただ返答する。 「今更《いまさら》?」 「今更って、確かに透《とおる》が入院したのは一ヶ月前ッスからねえ、ちと遅《おそ》かったかな」 「いやそうじゃなくて……あー、ほら、僕らの関係的にだよ」  気まずさを心の縁《ふち》に感じているのは、僕の方だけなのか。 「一年ぐらい」「一年と一ヶ月と十二日」僕の大雑把《おおざっぱ》な示しに、長瀬の厳しく正確な異常さも垣聞見《かいまみ》える修正が飛んでくる。「……それぐらい空いてるだろ。メールも電話も繋《つな》げてない。色んな形で繋がりがもう消えてたんだよ。そこにひょいと現れるから、疑うさ」 「ふうん、電話してほしかったの?」  長瀬は何処《どこ》か楽しそうに、僕の顔色を観察する。僕は、躊躇《ためら》わなかった。 「長瀬を好きだった頃《ころ》は、そうだったかも」  今されたらマユの果物《くだもの》ナイフの矛先《ほこさき》が林檎《りんご》から僕に変更《へんこう》される。そうしたら僕のこの傷は意味を失い、救済の手を差し伸《の》べた妹の母親に面目《めんぼく》が立たず、みーくんであるという意味とか運命とか必定の偶然《ぐうぜん》に対してとか壮大《そうだい》に風呂敷《ふろしき》を広げすぎて収拾がつかなくなったので、嘘《うそ》だけどってことで締《し》めくくった。  長瀬の表情から明るさが消し流される。これは人間関係における『地雷《じらい》』を踏《ふ》んだかなと、身構える。爆発《ばくはつ》されたら、と危惧《きぐ》する心。  けど、「全部過去形ですか」と小さく、けれど独白とは異なる声調で呟《つぶや》くだけで、表面上は不発だった。 「でも私たち、別れ話とかちゃんとしたっけ?」  身を乗り出して、長瀬の表情が陰鬱《いんうつ》から陽気にくるりと変わる。悪戯《いたずら》じみた笑顔《えがお》を浮かべる彼女の香《かお》りが近づき、些少《さしょう》ながらも心が乱れた。 「しなかった記憶《きおく》はない」 「相変わらず回りくどい喋《しゃべ》りッスね」 「……こんな話しても、今更《いまさら》だ」 「分かってる」と長瀬《ながせ》は身を引いた。それから一度、寒気に身震《みぶる》いした。 「屋内に戻《もど》ることを希望するッス」 「そうしよう」  何でこんな寒空の下にいなければいかんのだ、全く。面会室をどうして使わないんだ。  両者とも一致《いっち》する不満の解消を求めて、屋上から逃《に》げ出した。  そういえば、屋上か。屋上に、うら若い女性といたのか。 「おや、また顔色が悪くなった。信号ごっこッスか?」 「ちょっと、鶏《にわとり》になった時の記憶《きおく》がフラッシュバックしてね」 「はあ……透《とおる》は難儀《なんぎ》な男ッスね」  階段の踊《おど》り場《ば》で、長瀬は投げやりな感想を漏《も》らした。 「で、まだ別れ話する?」 「しない。分かってるって言ったじゃない」  そう言う割に、口調や口の歪《ゆが》み方は素直《すなお》に納得《なっとく》していないことを主張している。今にも気晴らしに松葉杖《まつばづえ》を蹴《け》り飛ばしそうな、そんな苛立《いらだ》ちが逃げも隠《かく》れもせず表れている。  階段を無事に下りきった時は、安堵《あんど》に肩《かた》の力が抜《ぬ》けた。  長瀬が、僕との微妙《びみょう》な距離《きょり》から一歩|踏《ふ》み出す。 「帰るのか」 「一樹《いつき》のとこにも行ってくるッスよ。今はちょっと不安がってるし」 「不安って、何が?」 「知らないの? 一樹と同じ部屋の人が失踪《しっそう》したッスよ」  ……ああ、昨日言ってた、行方《ゆくえ》不明の人か。 「あいつ、病院は慣れっこのくせに怖《こわ》がりだから。未《いま》だに夜、トイレに一人で行けないッスよ」 「人間、一つぐらいは怖いものがあるよ。僕だって借金には恐《おそ》れを成してしまう」 「夢のない怖さッスねえ……」  そこでようやく、長瀬は昔と酷似《こくじ》した笑顔《えがお》を僕に向けた。  それだけで、僕と長瀬の間にある淀《よど》んだ空気が些少《さしょう》だけど、緩和《かんわ》された気がした。  長瀬が改まったように姿勢を正し、僕と向き合う。 「もの凄《すご》く嫌《いや》だったら、もう来ないッスよ。一樹の見舞《みまい》のついでだし」 「……もの凄くってほどでもないけど」 「じゃあ来るかも」  屈託《くったく》なく微笑《ほほえ》む。今の、断らせる気なかっただろ。 「それじゃ、まーちゃんによろしく」  長瀬《ながせ》はそう言い残し、階段を一段ずつ飛ばして下りていった。  僕はそれを見送り、ふと気付く。  まーちゃん? 「……何処《どこ》で知ったんだか」  どういう意味で、言ったんだか。  病室に戻《もど》ると、マユは寝惚《ねぼ》け眼《まなこ》で窓の外を眺《なが》めていた。隣《となり》の度会《わたらい》さんは体調を崩《くず》したと言って検査も受けずに毛布を被っている。この人今は何処が悪くて入院してるんだ? 「あー……どこ行ってたの?」  寝起きの所為《せい》で、弛《たる》んだ物言いになっている。僕はベッドではなく椅子《いす》に腰《こし》かけて「トイレ」とすぐメッキの剥《は》がれそうな嘘《うそ》で偽《いつわ》った。マユは際立《きわだ》った反応を見せず、口の中で明瞭《めいりょう》を得ない言葉を蠢《うごめ》かすだけだった。 「そろそろまーちゃんは退院出来るね」  マユの包帯と髪《かみ》に触《ふ》れる。髪が洗えないと文句を垂《た》れて毎晩、勝手に包帯を外してしまう為《ため》、風呂《ふろ》上がりには僕が巻き直している。お世辞にも世界遺産に認定《にんてい》されるほど美しくはない。 「みーくんが治るまで無理」「無理じゃないの」「無理なの」  頬《ほお》が膨《ふく》れ、露骨《ろこつ》に拗《す》ねを表現する。それから、その表現が毛布を頭頂まで被るという行為《こうい》でも示され、子供っぽい断絶を図られた。 「まーちゃん、ここは僕のベッドなんだけど」  肩《かた》を揺《ゆ》らしても、マユは無視している。  そこで、興味本位に毛布へ手を入れ足の裏をくすぐってみた。マユは敏感《びんかん》に反応し、足をばたつかせて悶《もだ》え出す。彼女の鮮度《せんど》と活《い》きの良さに、僕の漁業魂《ぎょぎょうだましい》は感化されてその他諸々《もろもろ》まで巻き込んで燃え尽《つ》きた。その志を放置していたら遠洋漁業への門戸《もんこ》を叩く自分の姿が困難《こんなん》に想像出来たので大助かりでもなんでもない。何が嘘《うそ》なのか、自分でも判別できなくなってきた。  くすぐりを継続《けいぞく》しながら、長瀬のことを振《ふ》り返る。  長瀬との思い出は、まだ苦さだけではなかった。  数日後、マユの包帯は医者の手で外された。  そして一層、増量した包帯がマユの頭を覆《おお》った。  マユの使っている病室は個室で、専用の浴室が備わり、電磁コンロまで設備の一つとなっている。お値段の方は入院代とは別個で一日の使用料金が一万五千円強という大変リーズナブルと俺に言わせてみせろ。金持ちという概念《がいねん》は本当にあったんだ、と人々が感慨《かんがい》に耽《ふけ》る為《ため》の値段設定で、けれどその部屋が実際に利用されているのだから世界の奥深さには呆《あき》れと驚嘆《きょうたん》がひしめき合っている。  その、僕自身は一|生涯寝泊《しょうがいねと》まりしそうもない部屋で、一人|惚《ほう》けていた。  部屋内は暖色系の色彩《しきさい》に包まれ、浅薄《せんぱく》な白を基調とする院内とは月曜日と金曜日ぐらいかけ離《はな》れている。ヒーターの稼働《かどう》音が鼓膜《こまく》を揺《ゆ》らし、眠気《ねむけ》を誘《さそ》う。  ベッドの端《はし》に尻《しり》を下ろし、足を伸《の》ばしきって退屈《たいくつ》と遊ぶ。この部屋の借り主であるマユは、警察に事情|聴取《ちょうしゅ》を、被害《ひがい》者として半ば強制で受けさせられている。僕はその帰りを忠犬的に待ち焦《こ》がれていた。嘘《うそ》だけど。 「………………………………………」  今日の午前中に、マユは再度、頭部と花瓶《かびん》を巡《めぐ》り合わされた。白昼堂々、この病室で彼女は血|塗《まみ》れになり今回も気絶することなく自前の足で歩き通して医者に治療《ちりょう》を依頼《いらい》した。  ただ、前回との差異が一点ある。  今回は、他人に与《あた》えられた傷ですね。僕に事情を説明した医者はそう言った。  僕自身は、まだその新たな傷を与えられたマユと目や鼻をつき合わせていない。  餌《えさ》を求める忠犬ばりに、彼女のお帰りを待っていた。  松葉杖《まつばづえ》で床《ゆか》を打つ。鈍《にぶ》い音が、部屋に響《ひび》かない程度に鳴る。  最初の傷は、花のない花瓶で頭頂部を、自身の手で。  だけど、今回は真っ赤な彼岸花《ひがんばな》の咲いた花瓶で、額の僅《わず》か上を他人の手で。  また床を打つ、打つ、打ちつける。 「ったく、何てことをしやがるんだ」  マユを苛《いじ》めていいのは僕だけなのに。 「……嘘だけど」  まーちゃんを苛めないのがみーくんだしね。  まあ、ある日犯人と顔合わせでもしたらハムラビ法典を懐《ふところ》から取り出す程度に憤慨《ふんがい》しとくか。  そんな僕の状態に追い打ちをかけるように、横開きの扉《とびら》が開放され、一桁《ひとけた》の温度の空気と共に笑顔の来客が僕を出|迎《むか》えさせた。 「きゃー、みーくんだー」  素敵《すてき》に魔笛《まてを》に鼓笛《こてき》まで付きそうな悪びれもしない笑声。  こちらもつい、「ジェロちゃん久しぶりー」と、フランクな受け答えをしてしまう。 「まーちゃん以外にみーくん呼ばわりされるのが嫌《いや》なら、もう少しお顔で表現しましょうね」 「ご忠告痛み入りますが、痛かったらちゃんと右手を上げるようにしてますので」  上社奈月《かみやしろなつき》さんがつかつかと歩み寄ってくる。髪《かみ》を下ろし、長|袖《そで》のカットソーにチェックのスカート、それと長すぎるマフラー。ふとした拍子《ひょうし》に絞殺《こうさつ》されるんじゃないかってぐらい、首を防護している。この人、実年齢《じつねんれい》と見た目が比例していないから大抵《たいてい》の格好が相応になるな。  僕の隣《となり》に、滑《すべ》るように座り込む。 「今日はボーダーの服じゃないんですね」 「あれは勝負服です」「なるほど」  あの日、誰《だれ》と勝負していたんだろう。看守か?  奈月さんの顔が間近にある。唇《くちびる》が艶《つや》やかで、肌《はだ》も乾《かわ》きを訴《うった》えていない。 「入院の下見ですか?」 「ご期待に添《そ》えなくてすみません。みーさんに会いに来ただけです」  美人のおねえさんみたいな人にそんなことを言われて、素直《すなお》に喜べないのは損なのかも知れない。でも僕は、奈月さん相手ならそれで構わないと思った。 「来てみたら何やら問題が発生してるみたいですね。人が消えたり、マユちゃんが襲《おそ》われたり」 「ええ。あ、僕も奈月さんにお見舞《みま》いされたりしてるんですよ」 「まあ、みーさんにとっての問題として扱《あつか》って頂けるなんて、恋日《こいび》に夜道で問いつめられそうなほどの光栄ですね」  奈月さんがテレビのリモコンを手に取った。スイッチを入れ、チャンネルを日本放送協会に固定する。丁度、連続テレビ小説の昼放送が始まるところだった。個室のテレビはカードを購入《こうにゅう》しなくても鑑賞《かんしょう》出来るらしい。 「みーさんは素敵《すてき》な娯楽《ごらく》ですね、無人島暮らしの際には是非《ぜひ》持ち込みたい逸品《いっぴん》です」  あんた無人島っていう条件の意味分かってんのか。それなら僕だってマユとか持ち込むぞ。  それにしても薄々《うすうす》感じてはいたけど、僕のことは玩具扱《おもちゃあつか》いなんだな。  僕と遊ぶか、僕で遊ぶかの差異は判別し辛《づら》いけど。 「ては、そのご期待に添えるか分かりませんが、小話を一席」  僕の台詞《せりふ》始めに奈月さんの眼球がスライドし、見|据《す》えてくる。線目だから、非常にその変化が捉《とら》えにくい。貴方《あなた》がそんなこと考えてる人だとは思わなかったって、テレビの中の人にも言われてますよ。 「これは僕の友達の話なんですけど」「みーさんはお友達がいたんですか?」 「早とちりしました、まだ知り合いです。劇場版の冒険を通じることで心の友となります」 「なるほど、納得《なっとく》です」という奈月さんの受け答え。 「早く答えなさい」と妻が浮気した夫を叱責《しつせき》する、テレビの音声。  一拍《いっぱく》置いてから、例え話を紡《つむ》いだ。 「僕の知り合い、男なんですけどね。そいつは現在進行形で付き合ってる彼女がいるんですよ。で、ある日突然、一年ぐらい顔も合わせてない元カノが知り合いのところに現れたんですよ」 「出血具合はどうなんです?」 「先走りすぎです、刃物沙汰《はものざた》の修羅《しゅら》場にはなってませんよ。元カノは軽く世間話をしてあっさり帰ったんですけどね、やっぱり知り合いは気になるわけです。それで、奈月《なつき》さんは元カノの行動をどう思いますか?」 「慰謝《いしゃ》料の遠回しな催促《さいそく》と見ました」「別に知り合いは妊娠騒《にんしんさわ》ぎを起こしてません」  駄目《だめ》だこの人、独立した口の厚顔無恥《こうがんむち》な会話を容認《ようにん》してる人種だ。知り合いにそっくり。  奈月さんが顎《あご》に手をやり、探偵《たんてい》的なポージングを取る。「この泥棒猫《どろぼうねこ》!」と妻が浮気相手に掴《つか》みかかるお約束台詞《ぜりふ》がテレビから飛び出して、そちらに目が反応した。 「冗談《じょうだん》を抜《ぬ》きに、まずその知り合いは大|嘘《うそ》つきのトンチキと察しました」 「トンチキさんですか」ある人が思い出から浮かび上がった。けど今は関係ない。 「で、元カノさんはそのトンチキさんと、ヨリを復縁しようとしていますね。泥棒猫です」 「………………………………………」今、叫《さけ》んでたから使いたかっただけとかじゃないよな。 「或《ある》いは、そもそも別れ話を明確に行っておらず、片方が合意していないとか」  知り合いを直視しながら奈月さんが意見をぶつけてくる。知り合いは頬《ほお》を掻《か》いた。 「どちらにしても、トンチキな知り合いさんの命は風前の灯火《ともしび》ですね」 「いや、知り合いは現彼女がライクライクベリーライクなので問題はない、はずなんです」 「蚊《か》は血を吸《す》う相手の人間関係を考慮《こうりょ》しません。それから、まとわりつく蚊を振《ふ》り払《はら》うことに罪悪感を抱《いだ》く人間も、あまりいないでしょうねぇ」  奈月さんの器は的確だった。冷めて、情を廃止《はいし》した視点から語って、実に的確だ。  終わりですか? と目で尋《たず》ねてきたので、僕は「もう一つ」、と告げた。 「これは漠然《ばくぜん》とした質問なんですけど」 「みーさん自身も漠然としてますよね」  誰《だれ》もそんな事実は聞いてません。 「……思い出せない記憶《きおく》に価値と意味があると思いますか?」 「マユちゃんのことですか」  奈月さんは思考する手順を省き、言い切った。僕は何となく否定した。 「違《ちが》いますよ。たとえば五|歳《さい》の頃《ころ》、十一月七日に食べたご飯、起こった出来事を明確に記憶している人は数少ない。だけどその記憶は、失ったわけじゃなく、ただ眠《ねむ》っているだけなんです。近隣《きんりん》に爆弾《なくだん》が投下されても目覚めないほど、致命《ちめい》的な居眠りであっても。それでもその記憶に、意味とか価値があるのかなぁって」  推理《すいり》ポーズを解かないまま、奈月さんが少し難解な表情になる。 「ある……んでしょうか。行動は肥やしに……でも、記憶は劣化《れっか》、改竄《かいざん》……難しいですね」 「真面目《まじめ》に考えてもらわなくても、ちょっとした思いつきだったんで」 「私はどちらかというと、みーさんがそんなことを考えるに至った過程に興味があります」 「実は」「そろそろお暇《いとま》しますね」  僕の説明はシャープペンの芯《しん》より容易《たやす》く折られた。けど僕の精神はシャープペンの芯ぐらい替《か》えが利《き》くのでその程度で落ち込むことはなかった。 「もう帰るんですか」  滞在《たいざい》時間が十分以下の奈月《なつき》さんを、引き留めはしないけど声ぐらいはかける。「帰れ」と浮気相手に喚《わめ》き散らす妻の声援《せいえん》を背にして。 「患者《かんじゃ》が行方《ゆくえ》不明になった事件の調査に、私も微力《びりょく》ながら力添《ぞ》えしたいので」  まるで捜査《そうさ》協力に乗り出す探偵《たんてい》のような喋《しゃべ》り調子の奈月さん。 「それに、マユちゃんが戻《もど》ってきた時にいては、厄介《やっかい》事になるでしょうから」  ご迷惑《めいわく》より危険指数が勝《まさ》っている表現で、僕もそれに納得《なっとく》した。  それから奈月さんが、「あともう一つ」と某《ぼう》刑事を意識したように、質問の前置きをする。 「今回の件について、マユちゃんがどうして傷つけられたか、みーさんは分かります?」  それだけを尋《たず》ねに、ついでとして訪れたのだと僕はようやく理解した。これを遅咲きの桜という嘘《うそ》。 「……こんな痛ましい事件に、何故妻が……彼女は殺虫剤《さっちゅうざい》を使わず虫を殺すような子なのに……」 「まったくです」と、本当はそう思ってなんかいそうもない態度で爽《さわ》やかに受け答えをする奈月さん。  それからすぐ立ち上がり、颯爽《さっそう》と入り口に向かう。  僕は数|拍《はく》の呼吸をする時間分迷ってから、「奈月さん」と、その背中を呼んだ。 「はい?」と、柔《やわ》らかい微笑が授り返る。 「マユは、きっと何かしたんです」 「あら、言い切るんですね」 「美人、入院、美女と三要素が重なってですよ、事件の介入《かいにゅう》する隙間《すきま》がないと誰《だれ》が楽観視出来るかという話で」「ありがとうございました」  何に対しても向けられていない礼で僕の熱い主張は断ち切られた。ブラウン管の中で、夫を苛《さいな》む妻の視線ぐらい冷え冷えとしながら笑顔《えがお》の奈月さん。 「というわけで、何かあったら協力して下さい。主にマユという国宝を守る為《ため》に」 「了解《りょうかい》です、その前にみーさんは日本語の勉強をしてから国外に追放されて下さいね。では今度はマユちゃんの眠《ねむ》っていそうな時間にお訪ねします」  私的ではないかもしれませんけど。  格好つけた台詞《せりふ》を紡《つむ》ぎ、その直後に取ってつけたように「お大事に」と社交辞令を述べた。  奈月さんが廊下《ろうか》に出て、スライド式の扉《とびら》がゆるゆると閉じられた。  それによる風圧の所為《せい》にしてばたりと、僕は後ろへ倒《たお》れた。  シャンデリアじみた、華美《かび》な電灯《でんとう》が天井《てんじょう》を栄《は》えさせている。  それを眺《なが》めながら、渦《うず》巻いている靄《もや》をどう換気《かんき》すればいいのかと、皺《しわ》を追加して悩《なや》む。  起こすべき行動を、僕は探したいのかも知れない。  見上げたテレビでは、豆腐《とうふ》屋の親父《おやじ》が妻に、家の外へ蹴飛《けと》ばされて追い出され、今度は浮気相手に問いつめられていた。  頬《ほお》の歪《ゆが》みが、どうしてか抑《おさ》えられなかった。  パタパタと、スリッパが早足に応じる効果音がした。  部屋の前でそれが途絶《とだ》え、代わりに扉《とびら》を横へ強く滑《すべ》らせ、最奥《さいおう》へ激突《げきとつ》させる攻撃《こうげき》的な音。  入ってきたマユは額まで隙間《すきま》なく包帯が巻き付き、ターバンを思い起こさせる。  僕の姿を認めると、途端《とたん》にマユの気難しい面構《つらがま》えは単純明快になった。 「み、い、くーん!」  大|股《また》で飛び跳《は》ねた為《ため》、右のスリッパが爪先《つまさき》から、一足先に僕の下《もと》へ飛んできた。僕の頭上を通過し、カーテンに激突してベッドにぽとりと落下する。その直後に本体が僕に飛来した。僕の胴体《どうたい》へ頭から突《つ》っ込んで。おいおいおい。  しかしマユは苦悶《くもん》とまるで縁《えん》のない笑顔《えがお》を僕に晒《さら》す。 「まーちゃんね、警察に苛《いじ》められてしょーしんなの」  うるうる、と自作効果音までつけてお上の悪行を報告する。  今回は味方してくれるはずなんだけどねえ。 「よしよし」  暗に髪《かみ》を撫《な》でることを要求してきたので、包帯に触《ふ》れないよう慰《なぐさ》めた。 「でね、また入院しちゃった」 「……あのね、ぜんっぜん良いことじゃないんだよ。満面の笑顔で言わないの」 「んもー、みーくんの照れ屋さん。まーちゃんが側《そば》にいないと泣いちゃうくせに」  かなり強めに肩《かた》を叩《たた》かれる。僕は殊更《ことさら》に否定する気力が湧《わ》かなかった。  マユに押される形で、一緒《いっしょ》にベッドの上へ寝《ね》転ぶ。マユは僕の左肩に顎《あご》を載《の》せ、採掘《さいくつ》するように押しつけてくる。 「まーちゃんさ、最近変わったことをした? それとも、起きてた?」 「えーとー……んむー、ちゅー」ぎゅー。「ぢゅー」  頬《ほお》を摘《つま》み、縦タラコを作ってみた。  美女っていうのは、どれだけ崩《くず》れても最低基準は保ってるなあ。感服した。  マユはそれでも飽《あ》きずにちゅーを求めてくるので、僕自身の頬も摘んで規格を合わせて、口を不格好に重ねてみた。……うーん、達成感はあるけどときめかない。  色気もないが、口を離《はな》したマユの精神の高揚《こうよう》は滞《とどこお》りなかった。 「結婚式の季節は春がいいなー」 「春か、まーちゃんは式中に寝ちゃいそうだね」  僕の感想を冗談《じょうだん》と受け取ったのか、マユは幸福の塊《かたまり》みたいな笑い顔を形成する。  その表情の過程は偽《いつわ》りだけど、結果は紛《まが》ってなどいない。  けど違《ちが》う。今はほのぼのしてる場合でも、式に招待する人を纏《まと》めてる場合でもない。参加人数はきっと極小《ごくしょう》なんだろうなあと寂《さび》しがってる場合じゃない。誰《だれ》に言われずとも嘘《うそ》だけど。  僕はマユの肩《かた》を押し、鼻先が触《ふぃ》れない程度まで離《はな》す。それをキスの前置きと勘違《かんちが》いしたのか、瞼《まぶた》を柔《やわ》く下ろす。僕は彼女の誤解を解こうと、瞼を外側から開いてあげた。そのまま会話する。 「怪我《けが》は大丈夫《だいじょうぶ》?」 「ぜんぜんへーき。でもみーくんが心配してくれるから大丈夫ではないのです」  彼女の日本語は度《ど》し難《がた》い。何弁だろう。 「誰に叩《たた》かれたとか、警察の人に話した?」 「ううん。知らないし」  気負いもなく淡々《たんたん》と、妙《みょう》な否定をした。その後に眼球の乾《かわ》きに悶《もだ》え始めたので、指を瞼から離した。マユは両手で顔の上部を覆《おお》い、「涙《なみだ》が出ちゃう」と冗談めかした。  マユのつけられた傷は、額の少し上にある。だから、正面から襲《おそ》われたという確率が高い。  犯入を目撃《もくげき》していると考えるのが普通《ふつう》、なんだけど。 「知らない、って……殴《なぐ》られた場所は?」 「んと、ここ」  記憶《きおく》があやふやなように、自信なげに答える。 「誰か来た?」 「うーん、うん」 「うんうん、なるほど。で、それは誰?」  マユが眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せ、「むー」と戸惑《とまど》いの唸《うな》りをあげる。 「会ったけど……うー、分からない、うー……知らないのだ」  混乱の末、マユはまた不可解な否定を口にした。  嘘をついて、ごまかしているそぶりじゃない。  ……マユなら、あり得るかも。  僕はこの件についての言及《げんきゅう》を一旦《いったん》打ち切り、最初の質疑に回帰する。 「で、最初に質問したけど、最近は変なこととかなかった〜」 「変なこと……ちゅー」「は、お話が終わってから」  マユの額に人差し指を添《そ》え、お預けする。マユは「ケチ」と安直に罵倒《ばとう》し、ようやく記憶《きおく》を振《ふ》り返り始める。が、「うぬねぬ」と苦悩《くのう》する。 「あんまり一日の記憶がない。健忘症《けんぼうしょう》かな?」  僕は『たおやかに墓《はか》へ入れ』とマユ以外にだったら言うかもなぁ、と考えました。 「そーいえば、みーくんがあんパンを美味《おい》しそうに食べてた。甘いもの嫌《きら》いなのに」  あ、それは別の人だから。或《ある》いは、僕が別の人なの。  そう言ったらどんな顔をするだろう、と他人《ひと》事のように想像してしまった。 「他にはないかな?」 「んーと、みーくんがね」「僕以外にないの?」「ない! まーちゃんの毎日はみーくんだけなのだ!」  握《にぎ》り拳《こぶし》を掲《かか》げて断言した。そういう台詞《せりふ》はもう少し、平和な状況《じょうきょう》で使ってほしい。 「あ、でもこれは、ちょっと変わってるかも」  マユの脳内で豆電球が点《とも》ったのか、握り拳がぶんぶんと振り回される。 「どんな?」 「死体を見つけた」  眼球が膨張《ぼうちょう》したように、悲鳴と激痛をあげた。  舌が根本まで乾《かわ》ききってしまった。  僅《わず》か三文字を反芻《はんすう》するのにも多大な神経の酷使《こくし》が求められた。 「………………………………………死体?」  口から出るまでの過程で掠《かす》れ、摩耗《まもう》した声で当否《とうひ》の確認《かくにん》を行う。 「うむ、あれは確実に死んでましたな」  したり顔で、なんてことのないように、とんでもないことを言い放ちやがったまーちゃん。  僕も死にそうだ。 「死体……死体か。そりゃ変わってるね」「そう?」「そう」 「で、いつ見たの?」 「何日か前」「……何処《どこ》で見たの?」「病院」  ……あー、落ち着け。僕の辞書にパニックという言葉はない。漢和辞典だから。  ここは医療施設《いりょうしせつ》。つまり霊安《れいあん》室という、合法的に死体を安置出来る部屋が備わっているはず。迷子のまーちゃんが犬のお巡《まわ》りさんだか森の熊《くま》さんだかに連れられて、そこを訪《おとず》れた可能性だって……ないか。数日内に誰《だれ》か死亡したならこの小さな院内では噂《うわさ》話の一つは飛び交《か》う。  それに仮に霊安室であったとしたら、意味はない。マユの頭部が負傷するということは、事件性がないと……「ん? 数日前、死体……」  事件として、死体|騒動《そうどう》なんて報道されていない。だけど、それとは別の理由でこの病院に警察の姿があった。今も大車輪ほどではないけど、三輪車の後輪ぐらいは院内で頑張《がんば》ってる警察さんの目的。ブレーキの利《き》きを無視してペダルをこぐ奈月《なつき》さんのお仕事。 「失踪《しっそう》事件?」 「にゃ?」  もしかして。確定はしてないけど。  失踪事件は×。殺人事件が○?  死体は、病院の何処《どこ》かに隠《かく》されてる?  それを見つけたマユが、だから狙《ねら》われてる? 「まーちゃん、死体のことお話ししてくれない?」「やだ」 「なんで?」 「みーくんと他《ほか》の女の話なんかしたくないもん」  女? ああ、死体が女の子だったのか。となるとやっぱり、長瀬一樹《ながせいつき》の同部屋だった患者《かんじゃ》の可能性が濃厚《のうこう》だな。他に失踪者がいるならともかくとして。  ぷっとマユが膨《ふく》れる。おいおい、赤の他人の屍《しかばね》まで嫉妬《しっと》の対象ですか。  ……或《ある》いは、人の生死の区別が十分についていないのか。 「ねーえー、そんなことどーでもいいの。キスして、後結婚するの」  首に手を回し、無茶な要求をしてくる。取り敢《あ》えずその場しのぎで、簡単な方だけ実行することにした。……それはともかく、死体を目撃《もくげき》し、警察に証言しない。  それって、犯人なのでは。 「ねえ、どうしてそんな死体なんか見つけたのかな」 「ふと血の臭《にお》いを感じて」  朗《ほが》らかな笑顔《えがお》でサスペンスな台詞《せりふ》を発するマユ。あながち、冗談《じようだん》とも思えない。何かを隠《かく》している風でもない。本当に、その日ただ何となく死骸《しがい》のお宅《たく》へ行き、そこにあった死体を目撃した、という無自覚に、悪意の匂《にお》いを感じ取っているだけなのかも、知れない。 「なんちゃってー」  僕が脳だけ働かせて他の器官をほったらかしにしていたら、唐突《とうとつ》にマユが言った。 「……………………………………何がなんちゃってー?」 「実はまーちゃん、死体をおんぶしてる奴《やつ》を目撃ドキュンしたのだ!」  語尾も上がり気味に、得意気に言い放つ。拝聴《はいちょう》する僕の気分は反比例に下降していく。 「……うんうん、それで?」 「まーちゃん、追っかけたのだ!」 「次からはそういうことしちゃ駄目《だめ》だよ、危ないから」 「分かった!」  実にお元気良く不安な返事だ。「それで、それから?」 「まーちゃん、そいつがいなくなってから死体を探した! 病院死体発見!」  ダダーン、と両手を滑空《かっくう》する為《にめ》のように広げながら、自作のSEを挿入《そうにゅう》するマユ。 「そいつの顔とか見た?」  マユの手が下り、首を横に大げさに振《ふ》る。 「暗くて分かんなかった。でも、身体《からだ》は大きかったから男かな」 「ふむ、それで?」 「まーちゃん帰った! おやすみ!」  そう締《し》めくくり、その言葉をついでに利用して、ベッドに腰《こし》かける僕の膝《ひざ》の上へ頭を載《の》せ、左右に寝返《ねがえ》りをうつ。  ……無論のことながらこのマユが犯人でないことを、僕は根拠《こんきょ》もなく確信しているわけだけど、警察がどう捉《とら》えるかは別問題だ。即座《そくざ》に通報しなかったことは、恐《おそ》らく疑惑《ぎわく》の花を盛大に咲かす種子となりうる。その上、言いたくないがこの子の精神は四季折々が自慢《じまん》の日本も吃驚仰天《びっくりぎょうてん》、空気の色を花粉で毒々しく彩《いろど》るほどのお花畑。  そういった要素を、致命《ちめい》的であるとして攻撃《こうげき》してくる人間は、決して少なくない。  となるとこの一件、警察に駆《か》け込むことは最後の手段となる。  他《ほか》の手段はいずれも、自力に頼《たよ》るしかない。  ……普通《ふつう》に暮らしたいだけなのに。 「何で、こうなるかな」 「みーくんとまーちゃんが赤い糸でがんじがらめだからなのです」  マユの言葉は、本人の意図とは別に言い得て妙《みょう》だと思った。 「……なんで、そんなことだけ興味を持つかな」 「んん? よくわかんないけど、みーくんはやきもちをやいてるとみた!」  にゅふふ、と気味の悪い笑い声が似合うマユ。更《さら》に演出を狙《ねら》って、両頬《ほお》を引っ張ってみた。 「みぎー」  おお、伸《の》びる伸びる。これはこれで、味のある表情だ。  ……この子はまるで、誘拐《ゆうかい》や死体といった人の『悪意』と両|想《おも》いのようだ。  惹《ひ》いて、惹かれて。  そして、マユの言う赤い糸で繋《つな》がっている僕も、引きずられて。  ……その赤が、トマトによる着色とかなら大|歓迎《かんげい》なんだけどなあ。  まぁ、いいや。些細《ささい》なことか。  自分の為《ため》に、またマユを助けよう。この現状から、まーちゃんを。  死体、花瓶《かびん》、長瀬透《ながせとおる》それともう一つ。  何処《どこ》までが、僕にとって重要な『事件』なのだろう。  まずはその見極《みきわ》めから、始めることにした。 「まーちゃんはあれだねー、どんな顔しても美少女だね」 「しゅぎー」  喜んだ。  取り敢《あ》えず、マユは面白《おもしろ》い。 [#改丁] 二章『ぼくが僕であるために』 [#ここから3字下げ] わたしだけが、みーくんって呼んでいいのに。 お母さんにだって呼ばせてないのに。 最近出来たみーくんのお友達が、にこにこ笑顔で呼んでた。 なんであの子がみーくんって呼ぶの? みーくんはなんで否定しないの? なんで手を繋いでるの? どうしてみーくんの家にその子がいるの? その子はどうしてわたしに笑いかけてくるの? みーくんは、なんでわたしに笑顔で話しかけてくるの? [#ここで字下げ終わり]  長瀬透《ながせとおる》は僕の隣《となり》にいた。  高校一年の二学期、席|替《が》えをした時のことだ。 『よろしく、××ちゃん』  当時はまだ、長瀬の語尾に『ッス』が付属していなかった。  名前を嘲笑《ちょうしょう》されたように呼ばれ、僕は珍《めずら》しく前頭葉あたりが薪《まき》をくべた。 『こちらこそ、トオル君』  言い返された長瀬は、露骨《ろこつ》な嫌悪《けんお》感を僕にぶつけてきた。  互《たが》いに自分の名前が嫌《きら》いだったのだ。  これを切っかけに、僕らの仲は無味|無臭《むしゅう》から険悪になった。  長瀬は視力の関係だとか担任に主張し、一番前の席の奴《やつ》と場所を交換《こうかん》して僕から離《はな》れた。  僕は授業中、黒板の板書書きを見る際にも長瀬の後頭部が視界に入らないよう極力努めた。  この場合、どんな感情を根本にしているか定かじゃないけど、先に嫌味《いやみ》を口にした長瀬の方が悪い。しかし、比率はどうあれ、僕から謝《あやま》ることだって出来る。  長瀬との関係を、視界の片隅《かたすみ》に入る同級生同士にまで戻《もど》す積極的な理由が僕にはなかったから、行動には踏み切らなかったけど。  けれど、九月の末あたりで僕らの関係はもう一転する。  後期の美化委員の男子は僕(前期もだったけど)で、女子が長瀬に決まった。  僕らは互《たが》いを無視した姿勢を崩《くず》さないまま、げんなりした。  仮に御園《みその》マユが、健常な睡眠《すいみん》時問を取るだけで生活出来る心身を所持していた場合。  僕には、彼女以外との接触《せっしょく》や会話を排除《はいじょ》される運命が待っているだろう。  みーくんはまーちゃんとだけ向き合って暮らしていくことになる。  それが僕と彼女の達せられる最上の幸せであることは真実の余地がない。まだそこまでの領域に至れるほど、僕の修行は完遂《かんすい》されていない。出来ればしたくない。  そんな微妙《びみょう》なお年頃《としごろ》の僕が夕食前彼女の目を盗《ぬす》んで足を運んでいる女性は長瀬|一樹《いつき》だった。  僕が東の病棟《びょうとう》で、一樹は西病棟と正反対。廊下《ろうか》を四つは通過し、階段の昇降を二度要求される。片足で移動する僕は、普段《ふだん》の二足歩行が、どれだけ楽をしているか思い知らされた。まあ、それでも一週間前よりは改善された方だ。松葉杖《まつばづえ》を使い出した、最初の三日間は七転八倒《しちてんばっとう》じゃ済まなかった、今は大分慣れて、体勢を大きく崩すことはなくなった。手の平にマメをこさえてしまったけど。  それと道中、一人の警察の方とすれ違《ちが》った。院内で話題のない時に噂《うわさ》話として利用できる、失踪《しっそう》事件に奔走《ほんそう》する人だ。実は奈月《なつき》さんも来ているけど、今は個室で眠《ねむ》るマユの側《そば》に控《ひか》えている。マユを一人にすることは現在、大変好ましくない。傷害事件その他|諸々《もろもろ》があるからだ。よって救援《きゅうえん》を要請《ようせい》したら、意外にもすんなりと請《う》け負ってくれた。仮にマユが目覚めても、奈月さんなら何とか切り抜《ぬ》けるだろう。いざとなれば『まーちゃん』と呼んでごまかすだろうし。  西病棟、すなわち女棟の二度目の階段を登りきると、左手側にトイレ、右手に病室がある。トイレの大冒険を敢行《かんこう》する予定はないので、面白《おもしろ》みなく右折した。  一樹《いつき》の病室を訪ねるのは初めてだった。病室の扉《とびら》を開くと、室内は当然のことながら女性だけで四人部屋のベッドのうち、三つ埋《う》まっていた。  手前のベッドでテレビを鑑賞《かんしょう》しているお婆《ばあ》さんに会釈《えしゃく》しながら、二、三歩部屋の中央へ向かう。そして、奥のベッドで窓の外を眺《なが》めていた、左|腕《うで》を骨折中の一樹が振《ふ》り向いて僕に気付く。僕が「よっ」と左手を挙げるやいなや、一樹がベッドから降り、スリッパも履《は》かずに小走りで近寄ってきた。相も変わらず脳天気な、皺《しわ》と縁《えん》のない面構《つらがま》えをしている。小学四年生というより、四|歳児《さいじ》みたいだ。何処《どこ》か、マユに似通った部分がある。 「おお、ナマとーるではないか」  動作は機敏《きびん》なのに、喋《しゃベ》りは舌っ足らずで緩慢《かんまん》。……おや?  普段《ふだん》なら挨拶《あいさつ》代わりに体当たりを一発お見舞《みま》いしてくるような、感情を照れ隠《かく》しする為《ため》に軽い暴力を使用する性格の子なのに。今日は上下に身体《からだ》を揺《ゆ》するだけで、手は出してこない。まあいいや、別に当て身されるのが趣味《しゅみ》にまで高じてない。 「生ってあのね、焼き増しとーるがいるとでも?」 「写真やさんにたのめば楽ちんです」  パーマンや孫悟空《そんごく》より容易《たやす》く複製出来るのな、僕。  一樹が左足に重心を置いて右足を浮かし、僕の後方を確認《かくにん》するように覗《のぞ》く。 「あれぇ、ねーちゃんは?」 「ん、別に一緒《いっしょ》じゃないけど」 「ほほー、一人で会いに来るとはしゅしょーなとーるだ。けどおそい。ぼくも行くからって言って、もう三週間もたってるではないか」 「三週間前はまだ動けなかったでしょ」 「んん? じゃー、今日から動けるようになったのかー」 「いや、一週聞前」 「とーるのなまけもの」 「彼女の監視《かんし》が厳しくてね。けど君の顔を一目見ないと、僕の人生を幸福にするのはもっと厳しくなるのさ」などと甘いとか臭《くさ》い以前に、小学生相手では危険な台詞《せりふ》を吐《は》く狂人《きょうじん》としか捉《とら》えられない妄言《もうげん》は無論、口に出さない。 「高校生は色々|忙《いそが》しいのだよ」  売店で万引きとか森でエロ本探しとか小学生を誘拐《ゆうかい》とか(あくまでも一例である)。 「そーお?・ねーちゃんは毎日ひまっすーって言ってるぞ。あたし、女子サッカーと、道場と、ソフトボール行ってるからねーちゃんよりいそがしいっすー」  姉の口癖《くちぐせ》を真似《まね》て、暢気《のんき》な空気を形成する一樹《いつき》。この子は球技や武道といった、勝負事に向いていない性格をしてると僕個人は勝手に予想評価したり。ただ、習い事は長続きしそうだ。  それにしても、姉ちゃんどころか僕より多忙《たぼう》かも。僕の休日なんて……ま、振《ふ》り返るまでもないか。ビデオでその様子を録画して、後で客観的に見た場合に頭から鼻血喚き出しそうなぐらいの羞恥《しゅうち》を覚える程度の、慎《つつ》ましい休日だから。  一樹の後を追う形で、ベッドへ招かれる。上|機嫌《きげん》の一樹が、テンポの一つ遅《おく》れた鼻歌を演奏《えんそう》している。何だか、随分とむ気に入り登録されているわけである。遊び相手がいないので、退屈《たいくつ》しのぎの到来《とうらい》に浮き足立っているだけかも知れないけど。  一樹は先程《さきほど》同様、ベッドに収まる。僕は脇《わき》の椅子《いす》を借り、松葉杖《まつばづえ》を壁《かべ》に立てかけながら、窓を背後にして座る。背中にかかる陽射《ひざ》しが、室内の暖房《だんぼう》の暖かさとは別に、生温《なまぬる》い。 「ねーとーる」  寝取《ねと》る、でもなく寝とる、でもなーねぇムー○ン、的な呼びかけである。念の為《ため》、注釈《ちゅうしゃく》。 「あたし、びじんになれるかなあ?」  そんなことは占《うらな》い師か詐欺《さぎ》師に尋《たず》ねろ、とは突《つ》き放さなかった。 「ハードルの設定によるな。どれぐらいの美人が目標?」 「そうだなー、お店の商品がぜんぶ五割引で買えちゃうぐらいのびぽーを持ってる感じ」 「顔より舌を鍛《きた》えなさい」 「えー、じゃー、そーねー、ろーにゃくにゃんにょ節操なくストーカーがいっぱい出来ちゃうようなびじん」 「警察に駆《か》け込めさあ早く」 「うーむ、投げやられてしまった」  奇妙《きみょう》な日本語を駆使《くし》する一樹は、にへらっと締《し》まりのない顔つきがよく似合う。びゅーちほーよりはぷりちーに該当《がいとう》する容姿で、姉とは逆だ。 「で、なんでそんなこと尋《たず》ねたのさ」 「うむうむ、実はね、ゆーどーじんもんして、とーるにびじんだよーって言われてみたかった」  ……僕は君のお姉さんにも、そんな賛辞を述べたことはないんだけど。 「言ってくれないということは、とーるは年上好きなのだな。よし、早くとし取るぞー、そんでもって追い抜《ぬ》くそー、ねーちゃんのねーちゃんになるのだ」  なんだか、いつぞや何処《どこ》かで類似した願望を表明されたことを、頭の日記帳が報告してきた。 「……楽しそうだね」 「うん。とーるはおもしろい」  乳歯《にゅうし》の総入れ替《か》えが済んだ、並びのいい歯を見せて言う。  一緒《いっしょ》にいると、一樹《いつき》は和《なご》む。マユは癒《いや》される。奈月《なつき》さんは脱力する。 「ねーちゃんもとーると会うの好きって言ってた」 「……そっか」  長瀬《ながせ》は、疲《つか》れる。少なくとも今は。 「でさ、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」 「月謝の支|払《はら》いはもー少しお待ちください」 「滞納《たいのう》するなよ」  ……ま、それは置いといて。道草食べすぎる前に、主食に箸《はし》を伸《の》ばそう。 「でさ、何日か前にいなくなったのって、この部屋の人なんだろ?」  僕の質問に、一樹は少し陰《かげ》る。 「うん。ぴっちびちの中学生」  マユの話によればもう賞味期限はきれてると思うけど、なんて不謹慎《ふきんしん》な冗談《じょうだん》だねぇ。 「ふうん。美人さん?」 「あー、かんたんにびじんとか遣《つか》ってるー。やっぱりとーるは年上好きだー」  一樹が朗《ほが》らかにとち狂《くる》った指摘《してき》をする。僕は一市民として、我が町の将来を憂《うれ》いた。  それから一樹が、隣《となり》の整えられて、使用|形跡《けいせき》の見当たらないベッドに流し目を送った。ベッドの脇《わき》には松葉杖《まつばづえ》が置かれている。僕のお仲間さんだったのか。かといって、今の彼女と世界まで共有するほど死に急ぎではありたくない。 「そこに、一緒に入院してた」  一樹が湿《しめ》っぽく呟《つぶや》く。入院を過去形にすると、善《よ》し悪しが半々だな、と不意に思った。 「いつ頃《ごろ》いなくなったとか分かる?」 「六日前の夜に、消灯《しょうとう》する時まではいたよ。でー、朝起きたらいなかった」  一樹は、答え慣れているようにスラスラと(それでも間延びしている口調だけど)答えた。警察にも既《すで》に質問されているのだろう。 「とーる、探偵《たんてい》ごっこ?」 「ま、そんなようなものかな。ちょっと真剣《しんけん》な探偵ごっこ」 「ほほー。ごっこを真剣にやるなんて、とーるはいい大人だなー」  一樹がしたり顔になる。猫《ねこ》の口みたいになって余裕《よゆう》を装《よそお》っているけど、目は迷子のように彷徨《さまよ》っている。長瀬の言っていたように、その件については恐怖《きょうふ》を覚え、触《ふ》れたがらないのかも知れない。 「ではとーるくん、気を付けてほどほどに頑張《がんば》るのです」  冗談《じょうだん》めいているけど、本心は捉《とら》え難《がた》い。 「頑張《がんば》らせて頂《いただ》きたいんですけどね」  犯人については、ちょっと見当がつかない。  何か参考になるかもと訪《おとず》れてはみたけど、特別な情報はありそうもない。  どうしたものか。 「隣《となり》の美人女子中学生はさ、誰《ぜれ》かに告白されてそれを手酷《てひど》い態度で断ったり部活の大会とか出て痛いファンがついてストーカー被害《ひがい》に遭《あ》ってたり至極《しごく》単純に性格最悪で恨《うら》み辛《つら》みの終着点みたいな人だったりはしてなかった?」 「…………………………………………ぎゅるぎゅる」  一度に長文すぎたのか、一樹《いつき》が記憶《きおく》のCDを巻き戻《もど》し、脳の中で再生している。眼球も忙《せわ》しなく、応援《おうえん》するように動き回り、それが時折停止する。やがて、ギュルギュルが途絶《とだ》えた。 「あんまり仲良くなかった、んんー、良くなかった、じゃないなー。知らない、うー、かなー?」  つまり、分かりませんということだな。  困惑《こんわく》しながら言葉を紡《つむ》こうとする一樹の旋毛《つむじ》を指で押さえ、一時停止ボタンの代わりとする。一樹は「うっ」と呻《うめ》きながら身体《からだ》を硬直《こうちょく》させ、期待に応《こた》えてくれる。 「腕《うで》はどれぐらいで治る予定?」 「二週間ぐらい。気合を入れるとー、十四日ぐらいになるかも」  うむ、身の程《ほど》を弁《わきま》えている。気合の類《たぐい》と陸続きとは到底《とうてい》思えないものな、この子。 「そして更《さら》にキェーと叫《さけ》べば、十四日はたちまち、えーとじゅうよんとにじゅうよん……三百三十六時間になーる。それからもっとこんじょう出ぜば、さんびゃくさんじゅうろくと、ろくじゅう………………どでかい数字になるのだー。で」「停止」「あうっ」  本人が収拾をつけられそうもないので、強制終了《しゅうりょう》させた。旋毛をぐりぐりと指先で苛《いじ》める。一樹は髪《かみ》の毛を振《ふ》って逃《のが》れようとするが、あまり本気ではないらしく、効果はない。  一樹も落ち着いたようなので、指先だけでなく手の平を載せ、頭をくすぐるように柔《やわ》く撫《な》でる。一樹は「はげるー」とか嬉《うれ》しそうな声色《こわいろ》で訴《うった》えつつ、なすがままにされている。 「一樹」  思いの外、真面目《まじめ》な声が出た。 「こ、こくはくですか?」  良からね方向に誤解を招いた。頭撫でながら好きですと告げられて歓喜《かんき》一色に染まる奴《やつ》などいるのだろうか。あ、マユか。  それはともかくとして、僕は一樹に簡単な質問をした。 「怖《こわ》い?」  一樹の頬《ほお》の、穏《おだ》やかな丸みに微細《びさい》な歪《ゆが》みが生じ、陰《かげ》が表面の侵食《しんしょく》を果たそうと表れる。 「こわい」  一樹《いつき》は正直に同意した。 「だって人がいなくなるっていうのは、えーとー、すごくすっごく、んーとー、だめで、えー、あたしもそうなっちゃうよーとかー、だからー……」  身振《みぶ》り手振りを交え、取り留めのない文章を垂れ流す。  まあ、言いたいことは伝わってくる。 「とーいうわけで、とーる探偵《たんてい》が犯人をちゃっちゃと捕《つか》まえてばんばんざい」 「ん、うむ。任せられた」  一樹の頭頂を最後に一撫《ひとな》でし、実現は困難な依頼《いらい》を承《うけたまわ》った。 「んじゃ、姉《ねえ》ちゃんが見舞《みまい》に来たら控《ひか》えめによろしく言っといて」 「えんぶん?」  お前の姉ちゃんはいつ高血圧になったんだ。  大分慣れ親しんだ松葉杖《まつばづえ》を取り、椅子《》いすと尻《しり》を離《はな》す。松葉杖を床《ゆか》に付ける速度を一定に保とうなどと、遊び心を加えてみる。そうでないと、帰るべき病室の遠さに対し、ここへの移住を提案してしまいそうだ、 「ねーとーる」  それはねと以下略。身体《からだ》の向きは極力変えないよう、振《ふ》り向く。 「とーる、今は、ねーちゃん以外の人とつきあってるんだよねー?」 「うん、まあそんな印象を与《あた》える感じ」 「じゃー、その人にふられたら、あたしがつきあったげるー。よやくね」  ……ませた十|歳《さい》だな。僕は意外と、年下(すぎるけど)に好かれる奴《やつ》なのかも知れない。後、ご年配の方にもやたら声かけられるし。……大事な中間層が抜《ぬ》けているなあ。 「おー、いいぞ」  フラれたら、か。  その時に、僕がマユに殺されてなければ、ね。  それはそれとして、素直《すなお》に微笑《ほほえ》ましいと感じた。  また来てもいいな、と思えるぐらいに。  自室とかつい表現するほど宿泊《しゅくはく》している自分の病室に戻《もど》る途中《とちゆう》、度会《わたらい》さんと鉢合《はちあ》わせた。  中央|棟《とう》のあたりで出会うことから察するに、西病棟にでも用事があるのか。度会さんは、多少の疲弊《ひへい》を混じらせながらも僕に気付いて破顔一笑し、もつれ気味の足取りで距離《きょり》を詰《つ》めてきた。今日も朝から体調不良らしいけど、地面を自前の足で歩く程度には回復した様子だ。 「おう、どうした?」  皮相ほど雛《しわ》のない声で、僕の動向を尋《たず》ねてくる。 「見舞《みまい》に行ってきたんです」 「怪我《けが》人がか?」 「ついでに見舞われてきたのです」 「そうかそうか」と、適当に頷《うなず》く度会《わたらい》さん。入院中に冗談《じょうだん》だけで受け答えをしていた所為《せい》か、最近はすっかり話を流すのが上手《じょうず》になってしまった。 「度会さんもなにか用事ですか?」  社交辞令のように義務感に従って聞き返す。度会さんは大仰《おおぎょう》に間を取ってというか、億劫《おっくう》そうに緩漫《かんまん》に顎《あご》を引く。 「嫁《よめ》に会ってくる」 「ああ、夫婦|揃《そろ》っての入院でしたね」 「仲良くてなぁ、二人|一緒《いっしょ》に身体《からだ》のガタが来た。俺、もうじき死にそうだから、そっちも一緒なら寂《さび》しくねえかなぁ」  冗談めかす度会さんだけど、僕としてはそれに対して反応をし辛《づら》いので困る。 「度会さん、何処《どこ》を悪くしてるんです?」  入院当初は一本の肋《あばら》を二本にしようとして失敗していたけれど、他《ほか》にも内臓的な観点で悪化していそうだ。 「ちょっとな。ジジイになると、そのちょっとが命取りになるけぇ」  微妙《びみょう》に方言の出てる爺《じい》さんは、具体的な箇所《かしょ》をごまかす。他人の状態を詳《くわ》しく知りたいと思ったことは、少なくとも男性に関してはないので言及《げんきゅう》しない。  体調の匙《さじ》加減が演出しているのか、度会さんは一週間前より老《ふ》け込んだように視界に映る、六十から六十五|歳《さい》あたりまで、駆《か》け足で時を飛び越《こ》えたみたいだ。 「ま、若いうちは身体より、心を大事にする方がええかもな」 「……はぁ」  もう遅《おそ》い気がする。  先人の助言を、曖昧《あいまい》な態度で濁《にご》す。 「そうそう。お前んとこに客が来とるよ」 「……? どちら様で?」 「こないだ来とった女子高生」  長瀬《ながせ》か。……長瀬だろうな。 「帰るまで待つって言っとったぞ」 「分かりました。伝達お疲《つか》れ様っす」 「うんうん」と、度会さんがまた大雑把《おおざっぱ》に首を振《ふ》ってから歩いていく。その歩行する後ろ姿は、松葉杖《まつばづえ》を使えばいいのに、とお節介《せっかい》を焼いてしまいそうな頼《たよ》りなさが滲《にじ》み出ていた。 「……長瀬《ながせ》ね」  廊下《ろうか》の壁《かべ》に寄り、背中を預ける。自壁は程《ほど》悪く冷えすぎ、不快このうえない。それでも、物事を思案する時は身体《からだ》を安定させたかったので、やむを得ない。  行き交《か》う人のいない廊下《ろうか》は、病室から漏《も》れるテレビの音だけが微弱《びじゃく》に響《ひび》いていた。  ここで三|択《たく》問題だ。  最優先は、自分の寝床《ねどこ》への無事な到着《とうちゃく》。  人問には無限の選択|肢《し》と可能性がという寝言はさておき、解答に○を付けるべし。  一、聞かなかったことにしてこのままマユの病室へ行き、長瀬のことは放置。  二、長瀬のところへ先に向かい、早々にお引き取り願ってからマユの下《もと》へ。  三、そして僕は逃げ出した。 「……難しい」  許されるなら三を選ぶのも一興ではある。もっとも、誰《だれ》かに許しを請《こ》うような立場ではないし、誰かに行動を許してもらえるような立場でもない。マユは僕を許さないだろうけど、それは、『行動させない』ことを目指すわけで、『行動する』ことに他人の承諾《しょうだく》が必要な環境《かんきょう》ではない、ということ。自分をひ依怙贔屓《えこひいき》して言えば自立的、普通《ふつう》に言えば身勝手。  もっとも、逃亡《とうぼう》する手立てもないけど。よって不本意ながら、三は却下《きゃっか》。  というか、現実的な視点を持てば長瀬と会うしかないわけだ。 「参ったな……」  僕にはマユという危険が備わっているから、長瀬にはあまり来てほしくないんだけど。  長瀬のことは嫌《きら》いじゃない。  今は失っているけど、また交流を深めれば彼女の味噌汁《みそしる》を飲みたくなる可能性はある。  だけどそれを、僕は望んでいない。  僕が願うのは長瀬に、傷つかない程度の距離《きょり》を取ってほしいということだけだ。  来ないでください、と土下座(今の足じゃ無理だけど)する気概《きがい》で頼《たの》み込むしかないのか。 「あー考えるだけでしんどい。なにこれ、恋の病?」  一般的なやつとは絶対|違《ちが》うけど、類似《るいじ》してるかも。というか、病気という観点から捉《とら》えればこっちの方が用法として正しい気さえする。  若気《わかげ》の至りなんてほろ苦い回顧《かいこ》の表現を、成人する前に使うことになるなんて。  ま、これ以上は考えても事態が好転しないし、行こう。  階段を下り、長瀬に会いに。  右足の休暇《きゅうか》を恨《うら》めしく感じながら、廊下の移動を再開する。  …僕の意志で、一つ。  全《すべ》てに左右されず、一つだけ、はっきりと、明瞭《めいりょう》に、決まっていることがある。  それはあらゆる音にも、目に映るものにも、人閤関係にも揺《ゆ》るがない。  たとえ僕が『みーくん』でなかったとしても、  彼女の求める『透《とおる》』になる気がないと、いうことだけは。 「……ほんと、僕は誰《だれ》なんだろねぇ」  もう、笑うしかない。笑ってしか、済まされないんだ。  長瀬《ながせ》透は漫画《まんが》を読んでいた。  人の戸棚《とだな》から勝手に拝借したらしい。椅子《いす》に深々ともたれかかり、足を伸《の》ばしてベッドに置き、悠々《ゆうゆう》とした姿勢でページに視線を走らせている。  そして今の僕の足音、松葉杖《まつばづえ》が床《ゆか》を踏《ふ》む音色《ねいろ》で気付いたのか、俯《うつむ》いていた顔を上げる。  今日も制服だった。 「まーちゃんに会って来たッスか?」 「いや、妹さんのとこ」 「ああ」、と長瀬が頬《ほお》をほころばせる。ついでに本を閉じた。 「行ってくれたッスか」 「うん。で、僕が独《ひと》り身《み》になったら彼女になる約束をしてくれたよ」 「あは、それ結構本気ッスよ、あいつ」  長瀬が足を床に下ろし、スリッパ履《ば》きで立ち上がる。  僕の胸元《むなもと》まで近寄り、優《やさ》しく緩《ゆる》んだ表情で見上げてくる。 「透はモテるッスねえ」 「……厳密には違《ちが》う気もするけど。長瀬は僕の何処《どこ》が好きだった?」  僕が何気なく質問してみると、長瀬は「まっ」と不明瞭《ふめいりょう》な一声の後、頬に手を当てる。僕はその間に一歩引き、適切な距離《きょり》を取った。 「真顔で破廉恥《はれんち》なこと聞く奴《やつ》め」  僕の動作には言及《げんきゅう》せず、長瀬が軽く非難してくる。 「……? 好きな部分があったから付き合ったわけじゃないのか?」  長瀬は「ぎゃー」と冗談《じょうだん》じみた奇声《きせい》をあげ、悶《もだ》える。今にも膝《ひざ》から崩《くず》れていきそうに、身体《からだ》の重心を失って左右に揺《ゆ》れている。なんだこいつ、面白《おもしろ》い。僕の周囲は性格が若干《じゃっかん》、個性という名の歪《いびつ》な形を象《かたど》っている人が多く集《つど》っているけど(特に女性にその傾向《けいこう》が見られる)、こちらが会話の主導権を握《にぎ》れる相手は数少ないので、居心地《いごこち》は良い。警察のおねえさんとは大|違《ちが》いである。 「体罰《たいばつ》、体罰!」  長瀬が自分の口元から鼻を左手で覆《おお》い、右手で僕の二の腕を断続的に叩いてくる。腰が入っていない為《ため》、さしたる痛みはない。 「あ、照れてるのか」 「追い打ちかけるなー」  平手打ちが四拍子《よんびょうし》から二拍子になった。痛くはないけど衣服が擦《こす》れて痒《かゆ》い。  長瀬《ながせ》は千鳥足《ちどりあし》のように落ち着かない調子でまた椅子《いす》に向かい、腰《こし》から崩《くず》れて座り込んだ。僕は一度、背中からベッドに倒《たお》れ込み、上半身だけ起こす。長瀬の顔は、手を伸《の》ばせば届く位置にある。そう認識《にんしき》して、どうしてか自然と、右手が伸びた。  長瀬の頬《ほお》に手の平を当てると、発熱してるのかと勘繰《かんぐ》るほど血が集《つど》い、熱されていた。  長瀬は潤《うる》んだ眼球を彷徨《さまよ》わせて戸惑《とまど》い、けれどもすぐにはにかみ、僕の手の甲《こう》に自分の手を重ねた。 「ひんやりして気持ちいい」 「心に熱を奪《うば》われているのだ」 「あはは」と、長瀬はまんざらでもなさそうな笑い声。 「そういうとこ、あの、好きッスよ」 「ん? どういうとこさ」 「言葉では言い表せない部分ッスよ」 「……体温?」 「あんたね……優《やさ》しさとも違《ちが》って、一緒《いっしょ》にいること自体に、凄《すご》く安心するものがあるっていうか……やっぱり表現出来ないなぁ」  解答を導き出せないのに、長瀬は一片《いっぺん》の不満も抱《いだ》いていない様子だった。  僕の手の甲を慈《いつく》しむように撫《な》でる、長瀬の手は血が通いすぎている。暖炉《だんろ》の火ではなく、火事のような尖《とが》った熱さを帯びている。 「………………………………………」  目の靄《もや》が取れ、我に返る。  ……迂闊《うかつ》な、いい雰囲気《ふんいき》を膿《う》み出してしまった。  僕は長瀬の手を除《の》けて、慌《あわ》てながら右手を引っ込めた。 「失敬、ここは触《ふ》れ合い禁止広場だった」  実際、同室の男子高校生の睨《ね》め付ける視線がそれを訴《うった》えてくるし。 「相変わらず要領を得ない日本語ッスね」  長瀬の機嫌《きげん》は、さして低調にならなかった。むしろ、嬉々《きき》としているような。  苛《いじ》めっ子の笑い方をしている。 「なんだよ」 「まだ意識はしてくれるんだ」  してないように見えたのか。 「そりゃあ、なぁ」 「そりゃあそうッスか。うん、それはいい」  長瀬《ながせ》はご満悦《まんえつ》のようだ。僕はその真逆である。  乱れた制服の襟《えり》やスカートの浮きを長瀬が正す。その聞に僕は、長瀬の肩《かた》を思い返していた。今は隠《かく》れているけど(当然である)、長瀬は肩から二の腕《うで》の間が美しい。染みがないとか、触感《しょっかん》とかそういった部分ではなく、形や線が理想的だと初見の際、僕は感動した。  もっとも、その部分だけを絶賛していたら拗《す》ねたけど。女の子の心は複雑に綾《あや》をなしている。  閑話休題《かんわきゅうだい》。  僕は長瀬に確かめることがあった。 「ところでさ、何でマユのことまーちゃんって呼んでるの?」 「え、あー、何でって、昔からそう呼んでるッスよ」  長瀬は若干《じゃっかん》のどもりを含《ふく》めて返答する。僕は、暫《しば》しその言葉に硬直《こうちょく》する。 「……昔……あ、そっか。そういうことね」  合点《がてん》がいく。何だか、勘違《かんちが》いしてたみたいだ。  僕がマユと会う以前にも過去はあるんだよなあ。失念してた。 「小学校で友達だったとか?」 「保育所からッス。ちなみに私はながせさんと呼ばれてたッス」  ……あれ、と、いうことは。  …………へえーえ、ほほーぉ。うわぁ。 「とーるちゃんと呼んだ時に訂正《ていせい》を入れさせてもらったッスよ」 「ふぅん」  ……別に、今はいいか。その件については、また後で。  僕の気のない返事を察したのか、長瀬が挙手して話題を変える。 「私も尋《たず》ねたいんだけど」  僕は目線で続きを慨『た。 「学校で聞いたけど、なんで透《とおる》がみーくんって呼ばれてるッスか?」 「その一文だけ抽出《ちゅうしゅつ》するとわけ分からんな。誰《だれ》だ僕って感じ」 「茶化すな。透の悪い癖《くせ》」  睨《にら》み付《つ》けられた。今度は、真剣《しんけん》味の凝《こ》り固まった体罰《たいばつ》が執《と》り行われそうな怒気《どき》を含む目線。  僕はその視線を受け止め、顔を逸《そ》らすことはない。  まあ、尋ねたくもなるか。  マユを知ってるということは等号で、菅原《すがわら》も既知《きち》ってことだし。  けど。 「それを説明するには、現在のマユの心が如何《いか》に複雑|怪奇《かいき》かを白日の下《もと》に晒《さら》さないといけなくなる。だけど僕はそんなことをしたくはない。よってその件に対する質疑は却下《きゃっか》します」  僕の突《つ》っぱねに、長瀬《ながせ》は怒気《どき》を膨《ふく》らませる。その膨らみも綿飴《わたあめ》みたいならいいのに、バスガス爆発《ばくはつ》ぐらいの夢のない膨張《ぼうちょう》だ。 「言っておくけど、透《とおる》より私の方がまーちゃんと付き合いは長いの。だからその、部外者には教える必要がないみたいな態度は気にくわないし間違《まちが》ってる」 「そんな良縁《りょうえん》の関係があるなら僕に答えを求めないで理解してほしいんだけど」  長瀬の血液が沸騰《ふっとう》する瞬間《しゅんかん》が、僕の目には確かに映った。咄嵯《とっさ》に手近で掴《つか》んだ枕を両手持ちして、僕に叩《たた》きつける。枕は硬《かた》めで、相応の痛みが結果として僕に届いた。耳鳴りが発症《はっしょう》する。 「……果物《くだもの》ナイフがそっち側《がわ》になくて助かったよ」  僕の感想に脱力したのか、長瀬は肩《かた》の怒《いか》りを失う。枕を無造作に放《ほう》り捨て、縋《すが》るような目線を投射してきた。僕はそれと断絶を図ろうと瞼《まぶた》を下ろし、けれど口は閉じる前に長瀬に応《こた》えた。 「騙《だま》してるってことだよ」  簡潔に、極《きわ》めて正確な一言だと自画自賛。 「菅原《すがわら》君のフリしてるってこと?」 「いんや、みーくんをやってるってこと。これ以上は言わない」  もうこの話は打ち切ってくれ、と瞼の裏側を見ながら念じた。その念が通じたのか、長瀬からの音沙汰《おとさた》はない。そのまま、数分の瞑想《めいそう》に耽《ふけ》った。  その後に瞼を上げると、長瀬は神妙《しんみょう》な表情で僕を凝視《ぎょうし》していた。後、枕は定位竃に戻《もど》されていた。僕の念動力の賜《たまもの》ではない。 「まーちゃんのこと、好きなの?」  長瀬が、微妙《びみょう》に先程《さきほど》までを引きずった質問を投げかけてくる。 「人前で一つの林檎《りんご》を齧《かじ》り合えるぐらい好き」  再び長瀬の目つきが不良化する。真面目《まじめ》に答え辛《づら》いことを尋《たず》ねるそっちが悪い。 「まーちゃんのどこが好き?」 「顔」 「………………………………………」  長瀬は少し引いた。 「あの子の顔見てると幸せになったり癒《いや》されたり、良いこと尽《ず》くめだよ」  僕は多少、付け足した。長瀬は何だか含《ふく》みのある「ふぅん」を反応として漏《も》らした。 「てことは、騙してはいるけど好きなのは本当ってことッスよね」 「いやに絡《から》むな。そんなこと確認《かくにん》して、長瀬にとって意味があるのか?」 「まーちゃんのことを心配して悪いッスか? これでも仲良しだったし、透が関係してるとなれば尚更気《なおさらき》になるッス。当たり前じゃないッスか」 「ふぅん」  だった、ね。 「今は?」「えっ?」「今はどうなんだ? マユとの関係」 「それ、は……」  僕の疑問は長瀬《ながせ》の急所を突《つ》いたらしい。長瀬は押し黙《だま》り、悲痛な面持《おもも》ちに取って代わる。僕はそんな彼女を眺《なが》めて、自分の意地悪な性根を切り落とす旨《むね》を心の庭師に伝えた。嘘《うそ》だけど。 「それで、今までとは何の繋《つな》がりもない路線の話なんだけど」  落ち込む長瀬に声をかける。長瀬は額の髪《かみ》を払《はら》い、「なんスか」と沈下《ちんか》した声を出す。それと同時に病室の扉《とびら》が開き、のっそりとした度会《わたらい》さんが帰還《きかん》した。睡魔《すいま》に意識を蝕《むしば》まれているように緩慢《かんまん》かつ空虚《くうきょ》な動作で布団《ふとん》に潜《もぐ》り込み、呻《うめ》き声を数回あげてから身動《みじろ》ぎもしなくなった。それを見終えて、僕と長瀬の視線はまたキャッチボールする。僕は普段《ふだん》通りにカーブを放《ほう》った、 「長瀬って学校の成績はいい人種?」  長瀬が瞼《まぶた》の開閉で驚《おどろ》き指数を示し、面食らう。 「ほんとーに微塵《みじん》も関係なさそうッスね」 「僕は有言実行の男と巷《ちまた》で噂《うわさ》されている」  本当は言動不|一致《いっち》な奇人《きじん》と酷評《こくひょう》されているけど。  長瀬は腕《うで》を組み、横目で思案する。 「そうッスねえ、どうでもいい人種ってところッスか」 「その上手《うま》いことを言ったみたいなしたり顔はともかく、それでもノートぐらいは取ってるだろ? コピーさせてくれ」  僕の要求に、長瀬は違《ちが》った動機で瞬《まばた》きを早める。手品を眺《なが》めている時のような、好奇心《こうきしん》に基づく驚きが長瀬の瞼で遊んでいるのだ。 「ガリ勉君だったとは。期末試験も受けないのにおべんきょーッスか」 「僕のクラスでのあだ名は鼻眼鏡《はなめがね》君だよ」  両親じゃない人に世話になってるから、真面目《まじめ》に勉強しないと申し訳なさがある。  マユと同棲《どうせい》し出してからは、多少サボタージュしてる為《ため》に罪悪感もあったり。  本当は同じクラスの人に借りるのが理想型なんだけど、見舞《みまい》に足を運んでくれる級友がいないのだ。長瀬に頼《たよ》るしかない。 「いいッスよ」と、戸棚《とだな》の上に寝《ね》転んでいた学生|鞄《かばん》を長瀬が掴《つか》む。留め具を外し、中から数|冊《さつ》の大学ノートを取り出す。それを僕は厳《おごそ》かに受け取る。 「字が汚《きたな》いからって苦情は受け付けないッスよ」 「言わないよ、そんな贅沢《ぜいたく》なこと。僕も汚いし。ありがとう」  礼を述べながら、積み重なったノートの最上段を取り、開いてみる。 「……? ………………………? ☆☆★※☆干し?」  つい自作の宇宙共用語が流暢《りゅうちょう》に飛び出してしまった。どちらかというと、引きずり出された。それぐらい衝撃《しょうげき》のある文字の死屍累々《ししるいるい》。ローマ字と日本語の区別がつかない。英語は諦《あきら》めた方がいいかも。そう妥協《だきょう》して表紙を確認《かくにん》してみると、日本史と極太《ごくぶと》マジックで記載《きさい》されていたのが辛《かろ》うじて読み取れる。え? これ、日本語だけで編集されてるの?  ……どうしよう。背中と首筋の汗《あせ》が止まらない。 「けど、病院ってコピー機あるッスか?」 「いや、コンビニのを利用する。散歩がてら、よく外出してるんだ。次行った時に印刷して、終わったら一樹《いつき》に預けとくよ」  でもコピーして意味あるのかな、これ。 「別に一樹じゃなくても、私が来た時でいいじゃないッスか」  長瀬《ながせ》のその、さも当然よ、と主張する態度や声。  僕はノートから視線を浮上させて、今の今まで忘れていたことを長瀬に伝える。 「実は長瀬さん」「あーはいはい分かったッス、来るなってことッスね」  物分かり良すぎな、長瀬のやさぐれた態度。 「よく分かるね」 「今の流れで、透《と恕る》が下手《したて》に出るような切り出しをするならそれしかないッスよ」  一から三・八まで見抜かれていた。僕としては、これ以上何を言おうと言い訳がましくなるだけと悟《さと》り、そうでなくてはと言葉の洪水《こうずい》を長瀬に流水した。嘘《うそ》だけど。  そのまま顔を上げず、ノートに目を落とす。  落ち着いて解読を試みれば、漢文よりかは文法の問題で読みやすい。ただ、『ろ』と『3』の区別が全くつかないのは勘弁《かんべん》してほしい。後、達筆すぎて『金』と『全』の判読も不可能だ。  ……ん? なにこれ。  パラパラと、流し読みをしていた手を休憩《きゅうけい》させてそこに描《えが》かれているものを注視する。難解だ。 これまで印刷していいのかな、著作権で訴《うった》えたりしないだろうな。  作者に聞くのが一番の近道か。 「長瀬、これなんだけど」「どしたの?」 「いや、このウミウシみたいな輪郭《りんかく》の美少年の落書き」  ノートの上部を鷲掴《わしづか》みし、長瀬が見やすいよう、眼前に穿き出した。 「……………………………………あ、うあ、あう」  ん? 長瀬の様子が……おや、唇《くちびる》が震《ふる》えている。青いを悠々《ゆうゆう》通り越《こ》して、サツマイモの皮より紫《むらさき》になってしまった。そして、 「あああああああああああああああああ!」  病院どころか、カラオケ屋でもはた迷惑《めいわく》な絶叫《ぜっきょう》が長瀬の喉《のど》から飛び出した。 「ゲットバック!」  ビートルズの曲名みたいな叫《さけ》びと共にノートを引ったくられた(恐《おそ》らく誤用している)。それから乱暴な手つきでページを開き、中身を検閲《けんえつ》し始める。常人を遥《はる》かに凌駕《りょうが》する速度で眼球が縦横無尽《じゅうおうむじん》に活躍《かつやく》し、見る見るうちに充血《じゅうけつ》していく。熱血さんだな、とそれを暢気《のんき》に見守る。  やがて長瀬《ながせ》が椅子《いす》から転落し、床《ゆか》に膝《ひざ》を突《つ》く。身体《からだ》を丸めてノートを守るような姿勢を取り、筆箱をひっくり返して小さな消しゴムを装備する。うんのよさ等は上昇《じょうしょう》していないようだ。 「ちょっと待つ! 待つッスよ!」  涙目《なみだめ》になって必死である。その顔も悪くないね、などと宣《のたま》ったら僕の入院を三週間延長してきそうなので大人しく長瀬の観察に励《はげ》む。  女子高生が雑巾《ぞうきん》がけの手本を示すように、床《ゆか》に四つん這《ば》いになり、ページを破り散らす勢いで消しゴムを擦《こす》って恥部《ちぶ》を抹消《まっしょう》していく。腕《うで》を激しく上下させるその度《たび》に、スカートで覆《おお》われた長瀬の尻《しり》が上下に運動する。色気がない、と僕は感じたけど同室の高校生は色めき立ってその様子を鑑賞《かんしょう》している。度会《わたらい》さんも、長瀬の悲鳴で覚醒《かくせい》したのか寝《ね》返りをうって僕らの方に身体《からだ》を向け、女子高生の姿を驚愕《きょうがく》混じりに眺《なが》めている。冥土《めいど》の土産《みやげ》にはなるのだろうか。  そんな好色の視線は露《つゆ》知らず、長瀬は一心不乱に作業を続ける。今、二|冊《さつ》目のノートが終了《しゅうりょう》しようとしている。長瀬には色んな意味の迷惑《めいわく》をかけ通しだな、と僕は一層、彼女に対して殊勝《しゅしょう》な態度を取ることを遵守《じゅんしゅ》しようと誓《ちか》った。まあ嘘《うそ》なんだけど。  それから暫《しばら》くして、削除《さくじょ》は完了した。筆箱の中身を回収してから椅子に舞《ま》い戻《もど》ってきた長瀬は、額の汗《あせ》をハンカチで拭《ふ》き取り、肩《かた》で息をしている。 「悪は滅《ほろ》びたッス」  ノートも滅びそうになっている。市街地で暴れる正義の味方みたいな奴《やつ》だ。  コピー機よりはリサイクルに回されそうな大学ノートを改めて受理し、戸棚《とだな》に突《つ》っ込んで収める。余談だけど恋日《こいび》先生から借りた(或《ある》いは貰《もら》った、どっちなんだろう)漫画《まんが》はかさばり、収納に一苦労している。半分はマユの個室の棚を無断で借りて、事なきを得ている。 「じゃ、私はさらばするッス」  鞄《かばん》に胸元《むなもと》に抱《かか》え、羞恥《しゅうち》心に促《うなが》されて長瀬は退場を決め込む。 「もう恥《は》ずかしくてここに来れないッス」 「そりゃ残念」の反対を心の中で感じました。  長瀬が生来の不器用と急ごしらえの焦燥《しょうそう》で幾度《いくど》となく、自分の膝《ひざ》に引き合わせながら椅子を折り畳《たた》む。その椅子を、ゴミ捨て場に袋《ふくろ》を放《ほう》るぐらい乱雑に投げて壁《かべ》に置き、僕を見下ろした。 「……あー、道中お気を付けて」  僕からのお別れの挨拶《あいさつ》を待っているのかと推測《すいそく》し、手の振《ふ》りをつけて言ってみた。  長瀬は黙視《もくし》したまま、顔面の筋肉を弛緩《しかん》させない。 「ばいばいきん。先生さようならみなさんさようなら。御達者《おたっしゃ》で。アリーヴェデルチ。幸せでした。こんにちは世界初めまして私の居場所」  僕が齢《よわい》十八年(けど、小学校を一年休学しているので、まだ高校二年生だったりする)で学んだ挨拶《あいさつ》の全《すべ》てを駆使《くし》して長瀬《ながせ》への手向《たむ》けとした。しかし長瀬は馬耳東風《ばじとうふう》、無反応。瞬《まばた》きも控《ひか》えているぐらいに。  困った。呆《あき》れるか怒《おこ》るかしてくれないと、言った意味がない。 「どした?」  仕方なく真剣《しんけん》を装《よそお》う。具体的には僅《わず》かに身を乗り出し、口端《こうたん》に力を込めて、顎《あご》を引く。  長瀬は首筋の汗《あせ》を拭《ぬぐ》い、ついでに頭皮を人差し指で掻《か》いた。 「言おうか、迷ってただけッスよ」 「うん、何を?」 「いっこ、文句いい?」  乾燥《かんそう》した声質と目線が、僕の汗を蒸発《じょうはつ》させる。「いいよ」と、続きを促《うなが》す。  長瀬は淡泊《たんぱく》な調子で、僕への攻撃《こうげき》を紡《つむ》いだ。 「まーちゃんを騙《だま》してる透《とおる》は、卑怯《ひきょう》者」  僕が習ったこともない挨拶《あいさつ》で、長瀬は最後だけ軽《かろ》やかに去っていった。  僕と高校生と度会《わたらい》さんの見送りには振《ふ》り向かず、扉《とびら》は後ろ手で閉じられた。 「見舞《みまい》がいっぱい来てええなぁ」  度会さんが、皮肉めいた笑いを浮かべて僕に話しかける。そういえば、度会さんの下《もと》へお客さんが訪ねてくる風景は一度として病室に生まれたことがない。  そんな人を相手に「いやあ困っちゃうんですけどね」などという返事は拙《つたな》い常識に遮《さえぎ》られて、「そうっすね」というほかない。度会さんは咳《せ》き込んで唾《つば》を飛ばしながら、「だるい、死にそう」と語って布団《ふとん》と一体化した。頭頂まで潜《もぐ》り込んで眠《ねむ》る人なのである。 「なあ、どっちが本命なん? 修羅場《しゅらば》になる前に、マユちゃんって子の方を俺に譲《ゆず》っとく方がよくねぇ?」  高校生の意見には耳を傾《かたむ》けず、窓の外を眺《なが》めた。  枯木《かれき》ばかりで、花を咲かせようとする爺《じい》さんは見当たらない。というか、既《すで》に夜の帳《とばり》が下ろされ始めていて、冬の廃《すた》れた景色《けしき》を半分も楽しめない。 「………………………………………」  長瀬の残した文字の羅列《られつ》を反芻《はんすう》する。  まーちゃんを騙してる。ほぉ。  透は卑怯者。へぇ。 「……ちょっと、違《ちが》うな」  若者の日本語の乱れに、喝《かつ》を入れないと。  訂正《ていせい》を申請《しんせい》します。  とーるは臆病《おくびょう》者で、  みーくんが卑怯《ひきょう》者なんだよ。  長瀬《ながせ》と出会う度に気力が萎《な》えていくのを実感するけど、今は寝《ね》込んでもいられない。  奈月《なつき》さんに託《たく》しっぱなしのマユを引き受けに行かないといけないからだ。  というわけで、長瀬が退室して十分も経《た》たないうちに、僕も寝床《ねどこ》から巣立《すだ》っていた。  でる、ろうか。いどう、びょうしつ。早急《さっきゅう》にはなす、まゆを実行しないと。  ドット絵の存在になりきった気分で、てっこてっことマイペースに廊下《ろうか》を進行する。廊下は夜に対抗《たいこう》するように煌々《こうこう》と電光に照らされている。けれど、鼻や頬《ほお》があかぎれそうな冬の体温は、光にも暗闇《くらやみ》にも順応してそこに居座っている。それでも、夏季よりはマシか。  乾燥《かんそう》し、ひりつく喉《のど》を唾《つば》でごまかしながら階段を上がる。僕の病室は二階で、マユの部屋は個室|病棟《びょうとう》三階の、見晴らしの考慮《こうりょ》された位置にある。これがまた遠く、手の痛む道のりなのだ。  マユは入院当初、彼女の常識に基づいて僕と同室で過ごすことを提案してきた。けど生憎《あいにく》、地方の街の病院には二人部屋の要望が少数で男女平等でもないので、存在していなかった。よってマユは個室に二人で暮らしましょーを第二希望として僕に求めてきた。僕にとってもそれは悪い話ではなかった、けどあの手この手で断った。  別にマユに常識を求めているわけじゃないし、むしろそういう奔放《ほんぽう》な部分は大|歓迎《かんげい》。  単に、マユのヒモになる過程を着々と踏《ふ》み進めたくなかっただけだ。嘘《うそ》じゃないはずである。  結局、僕はマユと退院後、一つの約束を果たすことで事を円柱に収めた。そう考えて、円柱の計算式が咄嵯《とっさ》に知識として活用出来なくなっていることに気付いた。老朽化《ろうきゅうか》が酷《ひど》いのかな、僕の頭。円周率も小数点以下四|桁《けた》までしか唱えられなくなっている。  そんな、自身の頭部パーツがへっぽこ、或《ある》いはぽんこつと、気と知性の抜《ぬ》けた称号《しょうごう》を獲得《かくとく》しかけていることに若干《じゃっかん》の憂《うれ》いを覚えつつベロォと何かが「%(,(&#$#&%,&)〜((&),),,,&)(,)(〜(,〜!」ほ、頬《ほお》をなぞった。  鳥肌《とりはだ》より先に『チャオソレッラ』の五百倍ほど奇形《きけい》な叫《さけ》び声をあげて僕は腰《こし》を抜《ぬ》かした。松葉杖《まつばづえ》を取り落とし、壁《かべ》で右半身をしこたま痛めつけながら無様に転倒《てんとう》した。 「ありゃりゃ、おーどろいた」  僕の台詞《せりふ》を取って和《なご》やかに改変するな!  遅《おく》れて出没《しゅつぼつ》した鳥肌を握《にぎ》り潰《つぶ》すように、二の腕《うで》を掴《つか》まれて引っ張り上げられる。そのお相手は、二十代後半、食事の好き嫌《きら》いや食べ残しに厳しい看護師さんだった。チロチロと、爬虫《はちゅう》類のような仕草を見せる長い舌が僕の頬肉を這《は》い回ったのだろう。  床《ゆか》に寝そべった松葉杖を拾い、僕に握《にぎ》らせる。そして僕の肩《かた》を三回払《はら》い、営業スマイル。 「他《ほか》に痒《かゆ》いところはございませんか?」「自分の頭を掻《か》きむしってください」  看護師さんはへらへらと相好《そうごう》を崩《くず》し、僕の言葉など日常の呼吸ぐらい気にも留めずに「元気だねぇ」と評する。たとえ僕が何を言おうとそう返す算段だったのだろう。 「……で、何しくさってくれてやがりますですか」 「夕ご飯よ、ってかんごちさんからの母性全開、精|一杯《いっぱい》のメッセージを触《ふ》れ合いで伝えました」 「……敢《あ》えて何も言いません」  世の中には二種類の人間がいる。日本語の通じる人と、通じない人だ。  でもこの人は例外で、日本語ペラペラなのに頭もペラペラで人の日本語が聞き取れない奴《やつ》だ。 「ごめんごめん、精々《せいぜい》悲鳴をあげるぐらいかと思ってた。足とか大丈夫《だいじょうぶ》?」 「ええ、多分」  左足首が捻挫《ねんざ》していないのが不思議な倒《たお》れ方をしてしまったけど、看護師さんに通りがかられてセクハラされたこと以外は幸い、痛覚の活躍《かつやく》してる箇所《かしょ》はない。  看護師さんは額をこつんと叩《たた》き、舌を悪戯《いたずら》っぽく出す。「げへ」 「その笑い方、間違《まちが》ってるのに似合いすぎですよ」 「あれ、違った? 若者ってのは難しいね。じゃあ、あへ」「もっと似合いますね」  幻覚《げんかく》の一つや二つはお友達っぽいもんなこの人。  先生といい奈月《なつき》さんといい、僕らの上の世代はこの街で、一体どんな教育を施《ほどこ》されたんだろう。噺家《はなしか》の育成にでも着手して計画倒れしたのだろうか。  この看護師さんはコスプレせずともナース服で着|飾《かざ》っているけど、普段《ふだん》、帽子《ぼうし》は頭の上に載《の》せていない。働の看護師や医者が現れるのを見計らって被《かぶ》るのだ。教師の服装チェックをかいくぐろうと努力する高校生と何ら変わりない。今は、ずれ気味なカツラのように被っている。医者が一人階段に歩いてきて、その姿を目で追っているからだ。通り過ぎるのを確認《かくにん》してから帽子を丸めてポケットにねじ込み、看護師さんが髪《かみ》を指で梳《す》く。その髪型へのこだわりが帽子を嫌《きら》う理由のようだ。僕は髪の毛への造詣《ぞうけい》は深くないので、その髪が織りなす名詞を正式に答えることは出来ない。よって看護師カットと名付けた。テクノカットみたいなものである。 「ところでアタシね、キミの秘密を一から千まで知っているのよぅ」  そんなにねえよ。  看護師さんの人差し指が、僕の眼前で時計回りに回転する。こちらも対抗《たいこう》することにした。 「僕もあなたの秘密とか謎とか知ってるんですよぅ」  本当だけど。 ……なんて胡散臭《うさんくささ》さだ。  僕の突き出す人差し指は、逆時計回りに頑張《がんば》る。誰《だれ》か酔《よ》い止めをくれ。 「キミってば今日の午後、一樹に唾《つば》つけてたっしょ。一部始終見てたよ見てましたよ光源氏《ひかるげんじ》さんの勇姿を。ボトルキープですか、逆指名ですか」 「一樹? ……ああ」  接点のなさそうな人から知人の名前が出たことに、人差し指が一時停止する。けど無免許《むめんきょ》の匂《にお》いが漂《ただよ》う勤務姿勢でも一応は看護師、患者《かんじゃ》の名前ぐらい把握《はあく》してるか。 「一部始終、仕事サボって眺《なが》めてたんですか」 「んーん、仕事のついでに窓の外から眺めてた」  一樹《いつき》の病室は三階なんですけど。 「あなたの職務って宇宙入やることですか?」 「失礼な。七夕《たなばた》の短冊《たんざく》に『カラーひよこの味が良くなりますように』と書いた分際であたすを愚弄《ぐろう》するか」 「捏造《ねつぞう》すんな。大体、」「あ、ところでその一樹のことなんだけど」  潰《つぶ》された。この街の住人はアレしかりコレしかり、自己中心的であることが一般教養なのか。 「一樹はアタイの親父が開いてる道場の門下生ってーの? ま、平たく言えばアタチの弟子にあたるわけ」  平たくする他《ほか》に、上下関係の省略まで行っている気が。  指の円運動は同時に取りやめた。 「キミは一樹と如何様《いかよう》な関係を持ってるわけ?」 「僕とあなたみたいな関係です」所謂《いわゆる》、薄紅色《うすべにいろ》の他人ね。 「ふぅん。ま、知ってるかもしんないけど一樹は怖《こわ》がりでね、名和《なわ》がいなくなってから夜は暗くして眠るの嫌で仕方ないみたいなの。キミがい一緒《いっしょ》に寝《ね》てあげたら?」 「なわ?」最後の提案は流した。 「いなくなった子。名和|三秋《みつあき》」 「へぇ」 「今はどこで何してんだかね。ったく、怪我《けが》も治ってないってのに」  不満げに鼻を鳴らし、初めて、弛《ゆる》んだ顔面を引き締《し》める。その態度で、僕は少し見直した。 「看護師さんは今回の件にどのような見解をお持ちで?」  レポーター気分で質問してみた。 「事件に巻き込まれてるって感じかな」  看護師さんはまた帽子を髪《かみ》に載《の》せる。それから顎《あご》に手をやり、遠い目になる。 「例えば、殺人事件とか」 「………………………………………」  目が正面に回帰し、手がだらりと垂《た》れ下がる。 「わたしのアリバイはどうりょうのかんこしさんがしょうめいしてくれます」 「いきなり推理アドベンチャーしないでください」  僕も人のことを言えないが、評価は元通りに下落した。 「なによりわたしにはどうきがありません」 「だから誰《だれ》も聞いてねえっつーの」 「ふちょうにしゅっせするみこみもありません」 「それは不当な評価ですね、解雇《かいこ》されないのが不思議なのに」 「なんでじゃー!」  自らドット絵カメラ目線住人状態を解除した。怒《いか》りのはけ口として看護師さんの拳《こぶし》を受け止めた壁は、鈍《にぶ》い悲鳴を短くあげる。……この人が究《つ》っ込み役じゃなかったのは僥倖《ぎょうこう》だな。 「つうか、酷《ひど》い冗談《じょうだん》ですね」  そう言われて、看謹師さんは楽しくなさそうに微笑《ほほえ》む。 「笑い話で済ましたいってとこかな」  けど名和三秋《なわみつめき》は死んでいる。無事だといいですね、なんて白々《しらじら》しいことを言う必要は、今の僕になかった。 「無事だといいんだけどなぁ」と中空に向けて独白し、看護師さんは競歩みたいに腕《うで》を振《ふ》って階段を下りていった。心の根本まで冗談一色というわけではないようだ、僕と違《ちが》って。  そうして、看護師さんの妨害《ぼうがい》に遭遇《そうぐう》しながらも、何とかマユの病室前に到着《とうちゃく》した。  助手はいないので自分に命令を下し、とびら、あけるをしようとして、その手が耳の刺激《しげき》に応じて一時停止する。日本むかし話のナレーションみたいな、抑揚《よくよう》の控《ひか》えめな朗読《ろうどく》の声が扉《とびら》越《ご》しに届いた。祝詞《のりと》のようでもあるそれが、法定速度も驚《おどろ》きの低速で休まず続く。  僕は扉の外で待機し、耳を澄《す》まして聞き分ける。……奈月さんが喋ってるみたいだ。全文は判別出来ないけど、語尾がですます調で締《し》めくくられているように聞こえる。童話か絵本の類《たぐい》を、マユに読み聞かせているのか? それを、マユはどうしているんだ?  予想外の事態が中で発生している可能性に、僕は興奮《こうふん》も緊張《きんちょう》せず、ただ不可思議さに導かれて扉に手をかける。正面から扉を半分開いた。  室内には、当然だけどマユと奈月さんの二人がいた。マユはベッドの上で、上半身を起こして壁《かべ》を真《ま》っ直《す》ぐ見つめている。その目つきが、物腰《ものごし》が、妙《みょう》に大人びた冷静さを帯びていて、肌《はだ》がざわついた。  奈月さんは椅子《いす》に腰かけ、広く薄《うす》い本を手で支えている。  両者とも扉の音で僕の存在に気付き、振り向く。どちらも、心根はどうあれ表面は喜色を浮かべて歓迎《かんげい》してくれる。それと同時に、マユの不可解な雰囲気《ふんいき》が払拭《ふっしょく》された。  マユがベッドの縁《ふち》に手をついて足を下ろそうとする。けど、遠近感のなさが災《わざわ》いして、マユは空気を押してしまった。そのままゴロリと、肩《かた》から床《ゆか》へ落下するところを奈月さんが咄嵯《とっさ》に支え、身体《からだ》を押し戻《もど》す。マユは、特に抵抗《ていこう》を見せなかった。 「おかえりなさい、みーさん。先程《さきほど》の奇声《きせい》はみーさんのでしたか?」  鞄《かばん》を取って席を立ちながら、奈月さんがごく自然に言葉をかけてくる。僕は有耶無耶《うやむや》に「ええ」だの言いつつ、マユの方へ近寄る。マユも、今度は失敗せずベッド端《はし》まで移動し、空いた隣《となり》を叩《たた》いて誘《さそ》ってくる。相当に寝《ね》起きらしいのは、その態度で伝わってきた。 「では失礼します。それとこれ、差し上げますので」  奈月《なつき》さんの手にあった、絵本を手渡《わた》される。  うりこひめと、あまのじゃく。  表紙には平仮名で、そう明記されていた。  奈月さんは僕とすれ違《ちが》う際に「心配しないで」と囁《ささや》いて、意地悪そうな笑い方をして部屋を出ていった。心配って、なにをだ?  僕は分からないフリをしながら、マユに指定された場所で尻《しり》を下ろす。すると間髪《かんぱつ》入れずに、磁石《じしゃく》ごっこでもしているみたいにマユがくっついてきた。 「みーみーみーくん、みーみーくん」 「よしよし」  脳がもう少しで固茹《かたゆ》でになるはず。僕は、看護師さんの唾液《だえき》付きの伝言を思い返した。 「もうすぐ夕食だって」 「うん。わたし、お腹空《なかす》いた」  昼食の時間も眠《ねむ》ってたからね。 「でも、こんなとこのよりまーちゃんの作るご飯の方が美味《おい》しいよね」 「うん、それは勿論《もちろん》だよ」  そろそろ大丈夫《だいじょうぶ》かな。 「今の女の人、知ってるよね?」 「ううん、ぜんぜん知らない」  マユはあっさりと否定した。  ……なるほど。ということはつまり、ほぉーおなわけか。 「さっきの人のこと、嫌《きら》いじゃないんだ?」  マユが、側《そば》にいることを拒否《きょひ》しないなんて。 「んーん、嫌いだよ」  マユの屈託《くったく》のない笑顔《えがお》。一瞬《いっしゅん》のうちに豹変《ひょうへん》しそうで警戒《けいかい》してしまう。 「絵本が懐《なつ》かしかったから聞いてただけ」  つまりラジオと同列に扱《あつか》ってたわけか。流石《さすが》のマユも、機会には嫉妬《しっと》しないわけだ。  奈月さんが持ち込んだのかと絵本の裏面を見たら、達筆に病院の名前が記されていた。  お片づけの時間を全略しただけかよ。 「絵本とか、よく読んだんだ?」 「なに言ってんのー、みーくんとかわりばんこで読んだのに」  マユが三流の小話を耳にした後みたいに、目を吊《つ》り上げて反論する。僕はそこでようやくまーちゃんとの輝《かがや》かしい過去を懐古《かいこ》し、「そうだったねえ」と軽々《けいけい》に返事をした。嘘《うそ》だけど。 「みーくんちにお泊《と》まりした時、お布団《ふとん》の中でいっぱい読んだよね」  僕は無言だった。ただ、マユの、夢に着|飾《かざ》られた秀麗《しゅうれい》な面容を黙視《もくし》した。 「みーくんは読むの速すぎるから、わたしくろーしたんだよー」 「ごめんごめん」  僕の心にもない謝罪には無反応で、マユが絵本を、鼻歌交じりにめくる。端麗《たんれい》と幼稚《ようち》の混ざる、矛盾《むじゅん》じみた魅力《みりょく》を内包する顔つき。  その無邪気《むじゃき》な仕草は僕に安心感を与《あた》え、対象とする絵本は不安感で心を震憾《しんかん》させる。  心配しないで、だってさ。  奈月《なつき》さんは、お見通しのようにそんなことを言った。  ああしたさ。  心配、したさ。  マユが正常になっていないかって。 「………………………………………」  ひでぇな、僕は。  マユがこのままであることを望んでるわけか。  壊《こわ》れて夢見て間違《まちが》えて、弄《もてあそ》んでる現状を。  けど、そうだよなぁ。  マユの記憶《きおく》が正常化したら、僕は。  ……お払《はら》い箱《ばこ》、だからな。 「まーちゃんが読んであげよっか?」  マユの無垢《むく》な問いかけに、大仰《おおぎょう》に首を振《ふ》って雑念を振り払った。 「ご飯食べてからにしよう」 「うん、そだね」と絵本を引っ込めるマユ。  奈月さんほど性悪《しょうわる》な人は、いない。  一番効果的な、正しい嫌《いや》がらせだ。 「みーくん、どしたの? 泣きそうなの?」  マユが僕の膝元《ひざもと》まで身体《からだ》を滑《すべ》り込ませ、見上げる。  ふぅん、僕は今、そんな顔をしているのか。  一丁前に、嘆《なげ》いているってのか。 「いや、僕はまーちゃんのことが本当に好きなんだなって全米が泣いてたんだよ」  嘘《うそ》をついても。  騙《だま》しても、騙《かた》っても。  偽者《にせもの》でも。  偽物《にせもの》でも、贋物《にせもの》でも。  過程がなくても。  結果だけでも、イカサマでも。  ……バカップル万歳《ばんざい》三唱なわけだ、僕は。幸せな奴《やつ》だなぁ。 「まーちゃんはさ、僕の何処《どこ》が好き?」 「みーくんなとこ!」  赤面もせず、元気|一杯《いっぱい》なお返事。  素晴《すば》らしい。  まーちゃんは完壁《かんぺき》に正解してる。  それなのにどうして、間違《まちが》えてるんだろうね。 [#改丁] 三章『自己主義に透けた黒を求める夜』 [#ここから3字下げ] その子はわがままで、嫌いな給食はみんなみーくんに食べてもらってた。 わたしはご飯の好き嫌いなんかない。 その子は頭が悪くて、いつもみーくんに宿題を手伝ってもらってた。 わたしは、いっつも一人で宿題を解く。 その子は、その子は、その子は、全部駄目で。 わたしは、わたしは、わたしはみんな頑張ってる。 でもあの子はだめな子って怒られないし、わたしもいい子って褒められない。 みーくんも、お父さんもお母さんも、わたしの側にいない。 こんなの間違ってるって誰でも分かるのに、どうにもならない。 うるさいし。 みーくんみーくんみーくんみーくんみーくんって、 うるさい、あいつ。 [#ここで字下げ終わり]  長瀬透《ながせとおり》が男子から告自される場面に、僕が出会《でくわ》してしまったのは十月七日だった。  印象的だったので、時間帯まで記憶《きおく》している。昼休みと地続きの、掃除《そうじ》時間だ。  下駄箱で告白されていた長瀬と、男には勿体《もったい》ないほど艶《つや》のある黒髪の男子。  長瀬は『ちょっと考えさせて』の保留もなく、前菜を一口で平らげるように易々《やすやす》と断った。男子も男子で、二、三の聞き取り辛《づら》い言葉を残して、僕がいる方と正反対に小走りで去ってしまった。土下座の懇願《こんがん》で縋《すが》ってスカートを覗こうとする根性はないのか。それに踏み切ったら人間としての関係も築けそうにないけど。  長瀬はその背中を見送ることもせず、男子と反対、つまり僕の方へ向かってきた。  昼休みも終わり、掃除場所に行く途中《とちゅう》だった僕は逃《に》げるのも面倒《めんどう》で、そのまま佇《たたず》む。  壁《かべ》を背中合わせに突《つ》っ立っている僕を見て、長瀬は驚愕《きょうがく》し、瞳孔《どうこう》を引き締《し》める。  流石《さすが》に無視することは困難《こんなん》だったのか、気まずそうにしながらも足を止め、黙視《もくし》を互《たが》いに続ける。やがて口を開いたのは、やっぱり長瀬の方からだった。 『出歯亀《でばかめ》?」  長瀬の世界の正面に僕が据《す》えられるのは、席替《せきが》えの日以来で、僕もまた然《しか》りだった。 『偶然《ぐうぜん》見てたし偶々《たまなま》聞いてたよ。勿論《もちろん》言わないけど』 『別に言っても構わないッスけど。結構知ってる人いるし』 『……ちょっと難しい日本語だな』  この学校は光速で情報が伝達するのか? 『あの人に告白されるの、初めてじゃないッス。小学校で一回、中学で一回、今ので三回目』  長瀬はうんざりしたように言った。それで僕は合点《がてん》する。 『長瀬のことがよっぽど好きなんだ』 『こっちは困るッスけど。小学校の時は好きな男子がいたし、中学校の時は思春期|真《ま》っ直中《ただなか》で恥《は》ずかしいから嫌《いや》だったし。今は……ノリッスかね。二度あることは三度あるみたいな』  基本的にあの男は好意を抱《いだ》かれていないわけだ。それじゃあ、回数こなしても無理だろうな。 『ところで聞くけど、なに、その喋《しゃべ》り方』 『フレンドリーの証《あかし》ッス』 『ッス』があれば、嫌《きら》いな相手だろーと友好っぽいッス。開眼したッス。彼女はそう断言したけど、僕は『んなわけねーだろ』と否定した。長瀬は無視した。 『それで、こないだのこととか、全体的にっていうか、気にしてる、ッスよね。名前』 『そりゃね、そっちも?』  長瀬はどことなく嬉《うれ》しそうに、首を大きく縦に振《ふ》る。  そこで、僕らのわだかまりの壁《かべ》は溶《と》けて、薄《うす》くなった。 『小学校の入学式で、担任の先生が名簿《めいぼ》を見たの。それで、女子の欄《らん》に男が入ってるって言っちゃって、クラス中の人間に大笑いされた。あれはきつかったッスよ』  長瀬は、仲間を見つけた喜びに浮かされるように、饒舌《じょうぜつ》に身の上話をする。 『子供は嫌《いや》ッスよね、それがあって暫《しばら》くは、ランドセルの色とかでもからかわれたッスよ。何で赤なんだよーって。こっちからすると、お前ら赤くしてやろーかーって血が沸《わ》き立つッスけど、あの頃《ころ》は自己主張も出来ずに泣いてばかりだったッスよ』  穏《おだ》やかに語りながら放たれる、長瀬の蹴《け》りがゴミ箱を転倒《てんとう》させる。  散乱したゴミは、美化委員の片割れとして僕が処理した。 『ごめん』  長瀬が面目《めんぼく》なさそうに謝罪する。 『別にいいよ』 『そっちは何か理由あるッスか?』 『まあ、色々と。いい目より、悪い目の方が多かったから』  僕は、昔々に、悪意の巣窟《そうくつ》の中で一緒《いっしょ》にいた女の子を思い出した。  あの子は、僕を何と呼んでいたかな。 『ひらがなのとこが一層らぶりーッスよね。 あたしは好きッスよ』 『うるさいな、じゃあ差し上げるよ。有効活用してくれ』 『あ、それいいッスね』 『何が?』 『名前ッスよ。今日から自分は、長瀬××ッス』  ……耳が痛むけど、聞き間違《まちが》えじゃないよな。 『で、そっちが透《とおる》ッス』 『交換《こうかん》するってこと?』『ッス』 『……いいっすけどね』『おお、フレンドリー効果が相乗ッス』 『何処《どこ》がだよ……』  これを境に、僕は長瀬にとって『透』となった。  けれど僕は一度も、長瀬を別の名で呼ぶことはしなかった。  僕の方が、名前アレルギーは深刻だったから。  マユの病院での夕食は、僕の利用している病室で取ることになっていた。  マユの偏食《へんしょく》により受け渡《わた》された料理を、僕が食べられるとは限らないからである。けれど、この医療施設《いりょうしせつ》内で生類憐《しょうるいあわ》れみの令ぐらい理不尽《りふじん》に、残飯の存在を断固として認めていないので、胃から手が出て唇《くちびる》の前で食物|摂取《せっしゅ》を断る為《ため》には、秘密裏に他人に譲渡《じょうと》するしかない。つまり、人は一人では生きることが難しいことを実感する為の、病院側の素敵《すてき》な措置《そち》である嘘《うそ》。  よってマユも、病院|側《がわ》の言い分には徹底抗戦《てっていこうせん》でも、僕の平身低頭な態度の説明により渋々《しぶしぶ》ながらも納得《なっとく》している。嫌《きら》いな他人より、嫌いな食物の方が処理の優先度が高いのだろう。  で、今は夕食時である。 「みーくん、これ」 「はいはい」  キュウリの漬《つ》け物の小鉢《こばち》をマユから受け取るだけで、手は付けない。残せばどうせ、度会《わたらい》さんが胃に収めてしまう。何だかそれも、すっかりとお馴染《なじ》みの光景になってしまった。食べ過ぎは良くないと無理に止めるほど、僕は物事の当事者じゃないし。  いつもの看護師さんは既《すで》に別の病室へ行っているのでお筈《とが》めなし、あの人にも困ったものだ。  サイドテーブルにトレイを置き、マユはムニエルされた自身魚を解体している。入り込んでいる骨を一つ残らず撤去《てっきょ》しているのだ。そこらへん、不器用な長瀬《ながせ》とは対照的だ。長瀬は昔、一樹の為に林檎の皮を剥いたのに、剥き終えた後も実に新たな赤色が付着していた。帰り際に病院で指の手当をしてもらった長瀬のしょぼくれた表情は脳裏のアルバムに保存されている。 「何かおかしいの?」  マユの声がかかる。どうやら無意識に、長瀬の帰り際の『あれは誰《だれ》かの黒い陰謀《いんぼう》ッス! プラズマの所為ッス! 自分はマッチ棒の家を三年かけて組み立てられた逸材《いつざい》ッス! 林檎の皮は栄養価があるから勿体《もったい》ないから手が滑って気が迷って血が逆流して……呆《あき》れられたー!』を思い返して失笑しかけていたらしい。「何でもないよ」と、少し声を上擦《うわず》らせて返答した。  しかし、マユは軽く流さず、憮然《ぶぜん》とした面持《おもも》ちに変化する。魚肉に箸《はし》がザクザクと突《つ》き刺《さ》さり出し、麦茶をがぶ飲みする。個室|病棟《びょうとう》からここへ至る道中、声を軽々しくかけてきた男性に対する冷めた余所《よそ》行きの態度とは異質な、荒々《あらあら》しい反応をマユは表現する。 「まーちゃん?」  仏頂面《ぶっちょうづら》で無視された。今日は箸を僕の口に運ばず、黙々《もくもく》と咀嚼《そしゃく》する。その動作や箸の使い方は、実は上品だったりするのである。自他共に認めるお嬢《じょう》様暮らしをしていた為か、作法は万全なのだろう。  それはともかく、マユが急に不機嫌《ふきげん》になった理由は何だ。まさか僕の心を読んだわけでもあるまい。仮に読心術を体得していたのなら、箸の矛先《ほこさき》は魚ではなく僕に一直線だろうし。  後ほど、二人きりになったら探《さぐ》りを入れてみよう。或《ある》いは、マユから仕かけてくるかも知れないし。そのやり取りで何とか機嫌を並、いや贅沢《ぜいたく》に上を狙《ねら》う。それでマユに、幾《いく》つか質問して応答してもらわないと。まーちゃんがどうだのみーくんがこうだの愚痴《ぐち》ってる場合じゃない。  この後はマユと個室に行って、近頃《ちかごろ》は一緒に寝るわけだけど、その前に風呂入って、歯を磨《みが》いて、コンビニヘノートのコピー取りに行って。  で、そのついでに六日前に生まれた死体の新生児を見学しに行かないと。  死体を見に行くという行為《こうい》に、人は何を感じるのだろう。  恐怖《きょうふ》か、興味か、凶事《きょうじ》か。サスペンスか、ホラーか、ミステリーか。  一目見ようと廃線《はいせん》を歩いて赴《おもむ》く四人組もいるだろうし、死体を発見するという行いそのものに運命と意味|云々《うんぬん》を受信しちゃうセンシティブな方々もいらっしゃるだろう。  そして今回、僕の立場からすると、危険を第一に想像した。  恐《おそ》らく死体となった名和三秋《なわみつあき》はまだ表立っていない。彼女は警察に、未《いま》だ失踪《しっそう》者として扱《あつか》われているからだ。名和を殺害後、遺体を隠匿《いんとく》した輩《やから》がいて、隠《かく》すということはつまり見つかっては困るなと思ってるわけで、無闇《むやみ》に隠し場所近辺をうろつくことはないだろうから、そっちの心配は特にない。  ただ無関係な第三者、この場合は巡回《じゅんかい》してる看護師等々に僕を目撃《もくげき》されたら、毎日気張って病院を排徊《はいかい》している警察の御仁《ごじん》に誤報が提供され、いらぬ誤解を招いて犯人扱いだ。それはそれで、マユが容疑をかけられないで済むわけだから、次善の策として考慮《こうりょ》はしてある。けど、まだその手に頼《たよ》る決断を下すのは尚早《しょうそう》だ。何故《なぜ》なら、この件が直接的に、マユの頭部をひび割れさせた犯人と関連しているのかも、未だ不明瞭《ふめいりょう》なのだから。僕が優先すべきは、そちらの事件であるという方針を心から絶やしてはならない。 「………………………………………」  名和三秋の隠し場所に案内してもらい、死因を遺体から判断し、後は犯行現場をマユの話から割り出したい。情報不足を解消する為《ため》に、僕は今夜、危険に踏《ふ》み込む必要がある。  だからまず、マユの機嫌《きげん》を回復させることから始める、  マユの病室で、僕らは普段《ふだん》通りに寄り添《そ》っていた。ベッドの端《はし》っこを椅子《いす》代わりにして、足は部屋の中心へ伸《の》ばす。マユは、足をぶらぶらと振《ふ》り子にして、膨《ふく》れっ面《つら》になっていた。でも時折、欠伸《あくび》が出る為、いまいち怒《いか》りの意志が浸透《しんとう》してこない。 「ねえ、なに怒《おこ》ってるのかな?」  患部《かんぶ》に触れないよう、遠回りに手を回して肩《かた》を抱《だ》き寄せる。夕方の自虐《じぎゃく》な思考が、口の中で苦く広がる。それも、風呂《ふろ》上がりのマユの熱気と香《かお》りで中和され、肩から手は離《はな》さなかった。  ま、いいじゃんか。ぼかぁ幸せなわけだよ。  包帯を許可なく取り、傷に染みて悶《もだ》えながら洗った髪《かみ》、火照《ほて》った首筋、揺《ゆ》れる小さな足とか間近で眺《なが》めてたら、僕の何か浄化《じょうか》した。 「よし、元気出た」  一人で沈《しず》み浮きした。やっぱりマユは良いなぁ、幸福を原材料|抜《ぬ》きで精製する。悩《なや》みなど手品の鳩《はと》ぐらい鮮《あざ》やかに消滅《しょうめつ》してしまった。我ながら、人科人属ヒトにしては精神の構造が簡略化されすぎてるという指摘《してき》を甘受するのもやぶさかではないけど、その安直な繋《つな》がりがいいんじゃないか。  僕は自分を少し好きになった、ということにした。無理っぽいけど。 「でさ、」「ねえ」  台詞《せりふ》を被《かぶ》された。本日二度目。僕は無諭マユに発言の権利を譲《ゆず》る。  マユは、膨《ふく》れた頬《ほお》が萎《しぼ》み、目の潤《うる》みが増加した。 「わたしのこと嫌《懸ら》い?」 「あいやいや、いやいやいや待たれい」  歌舞伎《かぶき》役者になって、僕は全力で、千カロリー浪費しそうなぐらい力と熱を込めて否定して知恵熱が出た。真っ当な嘘《うそ》だけど。  マユは一層|涙目《なみだめ》になって僕の胸元《ななもと》を掴《つか》む。 「嫌《いや》なの?」 「いやいや、ってそうじゃなくて、あーもう日本語ってのはさー、でもない。勿論好《もちろんす》きだよ、イッヒリーベディッヒしてる」  こういう時、直球勝負が出来ないと苦労するよな。 「いっていりーべでひ?」  しかも知らないし。 「うーん……和訳をちょっと発展させて、この街で君と暮らしたいって意味かな」  マユは流石《さすが》に諸手《もろて》をあげて喝采《かっさい》はしないけど、目玉の水分が少し引く。 「じゃあ、わたしといると楽しくない?」  方向性に、多少の修正を施《ほどこ》した質問が飛んできた。 「だってみーくんは、わたしと話していても全然笑わない」  ……そういうことか。なんか、前にもそんな問答があったはず。その時は手と傘が言葉のフォローに飛んできたけど。で、それに後押しされて僕も飛んだわけだ。改めて振《ふ》り返ると、命を間違《まちが》った方向で粗末《そまつ》に扱《あつか》ってるよな、他称《たしょう》みーくんって奴《やつ》は。  しかし、どうしたものやら。自然に爽《さわ》やか笑顔《えがお》にならないと意味ないけど、今までそれが出来なかったわけで、意識してどうにかなるわけもなく。大体、そういうの似合わないしなぁ、高校生だけど球児を兼任《けんにん》してないし。一応、文化系の部には所属してる身分だけど。 「楽しいのは、確かだよ」  マユの訝《いぶか》しげな黙視《もくし》に対して妙案《みょうあん》になるかもと、単純な思いつきをそのまま口にした。 「もし楽しくないとしたら、どうしてまーちゃんと一緒《いっしょ》にいると思う?」  うん、この路線でいこう。 「わかんない」 「その通り、分からないね。だって楽しいから」  これでどうだ。自分なりに発想を逆転させた、悪くない流れだと思う。 「じゃあ笑うのー!」  理知的な子供からワガママ無邪気《むじゃき》な少女に変心した。二つの握《にぎ》り拳《こぶし》が僕の上半身に断続的に降り注ぐ。手加減は一切《いっさい》ない、そんな調整をしない。  マユは、傷や痛みに鈍感《どんかん》だから。物理的なものを感じないわけじゃなくて、それが心の機敏《きびん》に繋《つな》がり辛《づら》いのだ。よっぽど嫌《きら》いな、例えば元精神科医の先生に正面からぶん殴《なぐ》られでもしない限り、そこに心の痛みを覚えない。逆も然《しか》り。 「実は僕は笑顔《えがお》が死ぬほど不細工で無様だから、まーちゃんにお披露目《ひろめ》したくないのだよ」  嘘《うそ》だけど……と、必死に念じてみたり。せめて不美人と呼ばれたい。  それはともかく、意外に良い理由だと自画自賛しかけたのに、マユは即座《そくざ》の否定をした。 「そんなことないよ、なんかね、すごく狢好いい」  ……嘘なんだけど、別に赤面してない。 「あ、あのさぁ、僕が笑わないとそんなに嫌《いや》?」  嘘ですが、声が羞恥《しゅうち》で上擦《うわず》って、滑《すべ》っている。 「嫌とかじゃないの。まーちゃんといるといつもにこにこみたいなのがいいのー!」  わけ分からん。けど理解しないといけないんだよな。  ええと、つまり、マユを見習えってことか。  ……いや無理だろ。僕が美少女ならともかく、しがない男子高校生だぞ。顔は悪くないってマユや長瀬《ながせ》や一樹《いつき》や先生や奈月《なつき》さんが言ってくれるけど、女装出来ますよって意味にはならないし。しかも、別にそういう問題じゃない。頭が混線してる。考えるの終了《しゅうりょう》。  煙《けむ》に巻く方法は諦《あきら》め、取り敢《あ》えず当たって、砕《くだ》けるかどうかは運に任せることにした。  開き直った、ともいう。 「僕は、あんまり笑えないんだ」  マユの動きが硬直《こうちょく》し、ほんのりと真面目《まじめ》な顔つきになる。 「弁解のしようもないし、努力するような問題じゃないから、これ以上は言い訳しない。けど、僕はまーちゃんと一緒《いっしょ》にいる時が一番気楽で喜楽で楽しく愉快《ゆかい》で幸せだから。それは信じてほしい」  舌も噛《か》まず、顔面の温度も上昇《じょうしょう》させず、目も逸《そ》らさず。  僕にしては真摯《しんし》に言えた、と手応《てごた》えあり。  マユは、静止していた拳骨《げんこつ》を降らし、両手で各一発ずつ殴《なぐ》る。  それを締《し》めにしてくれた。  ふて寝《ね》するように、僕の太股《ふともも》に顔を突《つ》っ伏《ぷ》し、「むー……」と唸《うな》る。  納得《なっとく》はしていないけど、許してはくれたらしい。  それに伴《ともな》い、僕の肩《かた》の強張《こわば》りも取れる。  マユの、完全に乾《かわ》ききっていない髪《かみ》の川に指を通した。  湯上がり美人を膝《ひざ》にはべらせてるわけだな、ちょっと違《ちが》う気もするが。  さて、相も変わらず急がば回れをして、ようやっと本題に入ろうか。 「ねぇ、二つ教えてほしいんだけど」 「んむー」 「まーちゃんが見た死体、何処《どこ》にあるの?」  マユが伏《ふ》していた顔を上げ、猫《ねこ》の威嚇《いかく》をあげる。赤くなっている鼻と、髪《かみ》の森の奥に見え隠《かく》れする傷の浮かぶ額が晒《さら》される。 「浮気はだめでしょ!」  いや浮気ってあーた、相手はゾンビとして復活する見込みもない、純正の死体ですがな。  動かないし喋《しゃべ》らないし笑わないし泣かないんだぜ。 「死んでる人間と浮気は無理だよ」 「かんけーないの。死んでても何でも、みーくんがわたし以外に興味持つのやだ」  マユは当然と、憤然《ふんぜん》と、超然《ちょうぜん》と言い切った。  随分《ずいぶん》と、広範囲《こうはんい》な嫉妬《しっと》だな。人間関係には独占《どくせん》禁止法がないんだよなぁ。  けど僕は、マユのそういった感性に堪《たま》らないものを感じちゃってるわけで。  芸術家|肌《はだ》ってやつだな。多分、嘘《うそ》になるんだけど。 「興味とかじゃないんだよ。自衛とまーちゃんの為《ため》に、ちょっと調べに行くだけ」 「んにゃ? わたしの?」 「うん。まーちゃんは今、ちょっと危険な状況《じょうきょう》にいるんだ」  多分、恐《おそ》らくいやきっと。実際のところ、確証はない。  マユの目が左右を往復する。  頭に唾塗《つばぬ》って座禅《ざぜん》組む人の考える時間ぐらい経《た》って、ちーんときたのか目が正面で停止。 「駄目《だめ》です」  えー。酒場で別れ話を断る人ぐらいはっきりとしてやがる。  僕の異議が届いたのか、マユが眉根《まゆね》を寄せ、そっぽを向く。 「だって調べるってことは身体《からだ》見るんでしよ? だめだめだーめー」  後半の駄目に合わせて寝返《ねがえ》りをうつ。そんなことはしない、と言い切れない。検査する必要はあるから。  やむを得ない、こうなったら。 「じゃあさ、まーちゃんも一緒《いっしょ》に来ない?」  寝返りが丁度、仰向《あおむ》けの状態で治まる。マユは疑問|符《ふ》を視線で配送してくる。 「浮気しないか見張りに来ればいいんだよ」  本当は、望ましくない形だけど。  これでも却下《きゃっか》されたら、大人しく諦《あきら》めてコンビニに直行しよう。 「うーんー……」  渋《しぶ》るマユ。自身の親指を甘噛《あまが》みし、目玉が世界を彷復《さまよ》う。  面倒《めんどう》だなーとか寒いしなーとか葛藤《かっとう》していると推測《すいそく》する。 「あ!」と、突如《とつじょ》、マユの足が胴体《どうたい》の下へ収納され、上半身を立て直して座る姿勢になる。  それから、僕を見つめるマユの目。  普段《ふだん》から特異な虹彩《こうさい》を持つマユの瞳《ひとみ》が、夥《おびただ》しい光彩を放つ。  思い出を語る際に生じる現象だ。これを思い出ぼろぼろ現象とは安直なので名付けない。 「探検ごっこだ!」 「まあ、そんなかん」「懐《なつ》かしいなー。小学校に入ってから、いっつも学校の中ぐるぐる探検してたよねー」「そうだったねぇ(開き直り中)」  偶《たま》に一輪車に二人乗りとかしたよねえ(捏造《ねつぞう》中)。 「学校はすごーく広かった気がする。上級生の使ってる二階と三階は、全然別の場所みたいで、どきどきしたしちょっと怖《こわ》かった。壁《かべ》の下のちっちゃい通気口は時々|鍵《かぎ》が開いてて、理科室とかも入って遊んでたよね」  マユはそこで鼻を啜《すす》り、言葉を区切った。上目遣《うわめづか》い。僕の返事を心待ちにしているかのよう。 「そうだったね」 「覚えてる? わたしの好きだった場所」 「うん。図書館の隣《となり》の、予備室だ」  行ったことないけど。  正解だったらしく、満面の笑《え》み算みを頂戴《ちょうだい》した。 「やっぱり覚えてるんだー」 「地球|儀《ぎ》を回すの好きだったよね」  見たことないけど。  昔々、マユと寒々しい同居生活を送っていた時に、耳にしただけ。  うんうん、とマユは激しく肯定《こうてい》を示す。 「楽しかったなー……」  マユは何だか、泣き笑いをして、涙声《なみだこえ》になっているように、遠く遠くにその一言を呟《つぶや》いた。  まるで、葬儀《そうぎ》の後のように。  それも束《つか》の間、すぐにマユは童女の振《ふ》る舞《ま》いとなる。 「じゃあみーくんに付き合って、童心に返ったげようかなー」 「わーありがとー」  白々《しらじら》しく、黒々しい態度。  マユがベッドから跳躍《ちょうやく》し、半分転びながら着地する。  着替《きが》えの詰《つ》まっていた肩《かた》かけ鞄《かばん》を棚《たな》から引っ張り出し、中身をベッドの上ヘポイ捨てする。衣服とパジャマの替《か》え、それに下着類も遠慮《えんりょ》なく散乱する。それからマユは部屋中をふらふらと小走りで駆《か》け、自分なりの探検ごっこの準備を進める。 「パンにー、ナイフにー、ランプにー」  コラコラコラニつ目。 「没収《ぼっしゅう》」  刃《は》をタオル地の布できつく巻いた果物《くだもの》ナイフを、鞄に放《ほう》り込む前にマユから取り上げる。 「だーめ! それでみーくんを守るの!」  マユが僕の右手に飛びついてきた。ぎゃーナイフ持ってるんですけどー。  冗談《じょうだん》で済ませるうちに譲歩《じょうほ》した。これで名和三秋《なわみつあき》の死因が刺殺《しさつ》だったら死亡|推定《すいてい》時刻を超越《ちょうえつ》して犯人候補の筆頭になる。いやそれより、万が一犯人と出会《でくわ》したらマユが本物の殺人犯として葬られてしまう。どちらにして物騒極《ぶっそうきわま》まりない。 「後は熱い思いと、目玉が二つでかんぺき!」  天空の城でも探しに行きそうな気負いを背負ったマユ。鞄の紐《ひも》を左の肩《かた》にかけ、僕の下《もと》へ戻《もど》ってくる。 「みーくんは手ぶら? 給食の残りの食パンとかは?」 「僕は財布《さいふ》と手袋《てぶくろ》と、その机のやつだけ、かな」  病室から持ってきていた、長瀬《ながせ》の大学ノート計五|冊《さつ》。今はテーブルに放置してある。 「なにこれ?」 「僕のノート。ちよっとコピーが必要になってさ」  マユがノートを一冊|抜《ぬ》き取り中身を確かめる。女の子の筆跡《ひっせき》だ、なんて文句が飛んできたらと身構えていたら、「もっと字のお勉強しなさい」と窘《たしな》められた。ナイスだ長瀬、暗号のような日本語を記すお前の不器用さが実ったぞ。本人に告げたら枕《まくら》とか利用して反論しそうだけど。  マユの鞄にノートを入れてもらい、後はマユの勧《すす》めで靴《くつ》を準備し、用意は調《ととの》う。時刻は、午後七時半。消灯《しょうとう》時間を過ぎて、暫《しばら》くしてから行動に移すつもりなのでまだ早い。  今にも勇んで飛び出していきそうなマユを制し、僕の隣《となり》に座らせる。待っている間に欠伸《あくび》の出る暇《ひま》もなく眠《ねむ》り子となりそうなマユに不安を抱《いだ》き、先に場所を聞き出しておくことにした。 「何処《どこ》を探検するつもり?」 「んと、一回外出て、ぐるーっと回ったとこにある建物」 「ん……旧|病棟《びょうとう》の方かな」 「そうそう」  現在では周りが夢の島|扱《あつか》いになっているゴミ屋敷《やしき》。  来年には取り壊《こわ》し、樹木を植えて散歩道にでもする予定だとお婆《ばあ》様方のコミュニ一アイが噂話《ばなし》していた。 「楽しみだねー……」  足を宙で遊泳させながら、寝言《ねごと》のように不確かに呟《つぶや》く。  マユが肩《かた》にもたれかかり、僕の手を自然に握《にぎ》る。長瀬《ながせ》の手よ僅《わず》かに小さい。 「ねぇ」「ん?」  微睡《まどろ》んでいるような、マユの仕草と目つきと声が印象的だった。 「みーくんは、笑わないし、泣かないね」 「……ーそうだね」  心がカラカラだから、かな。  午後九時の消灯《しょうとう》時間から、四十分が経過した。僕と、珍《めずら》しく夜更《よふ》かしが成立しているマユは部屋を出て、非常灯だけに淡《あわ》く照らされる廊下《ろうか》を歩き出した。 「かつーん、かつーん」  ホラーにありがちな、暗闇《くらやみ》に響《ひび》く硬質《こうしつ》な靴《くつ》の反響《はんきょう》音を演出しているのか、マユの気の抜《ぬ》けたSEが入る。実際はスリッパのパタパタと、松葉杖《まつばづえ》のとっかとっかだ。  マユは寝間着から普段着《ふだんぎ》に着替《きが》え、白い鞄《かばん》の紐《ひも》を肩《かた》に斜《なな》めがけして遠足気分である。  今日は外に出ても、浮かれているのか眠気《ねむけ》が邪魔《じゃま》しているのか、態度が柔《やわ》らかいままだ。 「今日は遅《おそ》くまで起きてるね」  道中、僕は半分|素直《すなお》に褒《ほ》め、半分は残念がった。待機している時聞中にお休みなさいと御挨拶《ごあいさつ》することを期待していたのに。マユはジト目で、嬉《うれ》しがらない。 「子供|扱《あつか》いしてる」 「そんなことないよ、偉《えら》い偉い」 「むー、まーひゃんひゃみょうおひょひゃひよひよに……」  欠伸《あくび》しながら何か言っていた。  一階まで下りて、光の漏《も》れている部屋から遠ざかる方へ行く。正面玄関の鍵《かぎ》をぶち壊《こわ》して帰巣《きそう》する際は元通りにしておく妙案《みょうあん》が、恥《は》ずかしながら考えつかなかったので裏口を利用することにした。  非常灯がやたら多く備え付けられ、公衆電話のボックスみたいにケミカルな緑色で着色された世界を緩《ゆる》い速度で前進する。ロビーへ通ずる方角と正反対の道へ曲がると、ポツポツと赤銅《しゃくどう》色の長|椅子《いす》が設置されていた。  病院の最奥《さいおう》である非常口の前に到着《とうちゃく》する。行き詰《づ》まりの廊下《ろうか》の隅《すみ》には、使用期問がとっくに円満|終了《しゅうりょう》を迎えていそうな消火器。後、最初は真綿のように漂白《ひょうはく》されていた先端が、今では爛《ただ》れた葡萄《ぶどう》となっているモップも壁《かべ》に寄り添《そ》って立ち番していた。 「どきどきしたよね、扉《とびら》を開ける時って。何があって、何が見えるのかって」  マユはスリッパを鞄《かばん》にしまい、代わりに汚《よご》れ一つない靴《くつ》を取り出す。旧病棟《びょうとう》は割れた硝子《がらす》等が床《ゆか》にあり、サンダルでは足下《あしもと》が危険だとマユが説明していた。僕も片足分だけ靴に履《は》き替《か》えるのを手伝ってもらいながら、「そうだね」と優《やさ》しい声色《こわいろ》を使って返答した。それから、金属剥《む》き出しで嫌がらせとして冷たい取っ手を掴んで捻り、非常でもないのに扉は開いた。  扉の外へ出る。一歩|踏《ふ》み出した場所は、赤錆《あかさび》の国となった非常階段の真下、陰《かげ》に彩《いろど》られた立地だった。頭部を打ち付けないように注意しながら、草木の枯《か》れ果てた地面へ移動する。 「寒い」とマユは不満を漏《も》らし、僕の包帯が巻かれた左|腕《うで》に遠慮《えんりょ》なく抱《だ》きつく。 「いや、動けないから」  僕が引っ剥《ぺ》がそうとすると、マユは反抗期にしがみついてきた。 「動くまで、このまま」 「……うん」  風は留らめかせる草木を失い、人間の触覚《しょっかく》と聴覚にその存在を訴《うった》えかけている。パジャマの上に安物のジャケットを羽織っても、冬風は通り道の抵抗《ていこう》と認識《にんしき》しているかも怪《あや》しい。引き返してマユと抱《だ》き合って暖《だん》を取りたい衝動《しぉうどう》に誘惑《ゆうわく》されないようにと、遥《はる》か頭上で渦《うず》巻く、生き物以外の鳴き声に導かれて首を傾《かたむ》けた。  夜の、雲が流れる晴れた空は好ましい鑑賞《かんしょう》風景だった。強風に胴体《どうたい》を真っ二つにされ、それでも尚《なお》流動する、一枚の絵画のような光景を見上げると、寒冷も多少は気が紛《まぎ》れた。後は行動意欲が萎《な》えきる前に、決意で身体《からだ》を動かすだけだ。死体を見学して、それから有《あ》り難《がた》みの薄《うす》いノートを印刷しに行くという、二つの目的を達する為《ため》に。 「てけててーん」と、手が丸形になりそうな前フリをして、マユが用意していたランプ、すなわち懐中電灯《かいちゅうでんとう》が鞄から取り出された。個室に常備されているやつである。電源を入れると、前方の一部分が日中になった。その一連の動作を眺《なが》めて、僕は単独では電灯を握《にぎ》ることも不可能であることに、今更《いまさら》気付かされた。マユが連れ添《そ》ってくれて正解だったんだな、意外にも。  ここからは、現在、僕らが突《つ》っ立っている東|側《がわ》から、時計回りに北西へ移動することになる。北は正面出入り口だし、その途中《とちゅう》にも駐車場《ちゅうしゃじょう》があるから、用心に越《こ》したことはない。マユがライトを構え、名残惜《なごりお》しそうに僕から薄皮一枚程度、離《はな》れる。  雨には不戦勝し、後は風に負けぬよう土を踏《ふ》みしめる。科学な廊下《ろうか》より若干《じゃっかん》、自然な大地の方が踏《ふ》み心地《ごこち》は悪い。松葉杖《まつばづえ》を突く感触《かんしょく》も、いまいちだ。  南側に入ると、病院が風|除《よ》けになってくれた。建物の陰《かげ》から離れ、敷地《しきち》の壁際《かべぎわ》には花壇《かだん》が整っている。控《ひか》えめなスポットライトを花壇に向けると、幾《いく》つかの花々はその人工の光を浴びた。ただ、僕の拙《つたな》い知識で照合した結果、分かるのはスイセンぐらいだった。虫食い対策に、花壇の縁《ふち》に植えられているスイセンの花が僕らに小さいお辞儀《じぎ》をしていた。 「ねぇねぇ、今わたしが寝《ね》ちゃったら、みーくんどうする?」  草木の寝床《ねどこ》を敷《し》いて放置する。嘘《うそ》だけど。  所持した光を掲《かか》げる物のお零《こぼ》れで、うっすらと浮かび上がるマユの表情は、特徴《とくちょう》なしだった。 「背負って帰るよ。僕の足の包帯を解いてね」  その言葉に安心したのか、マユは上|機嫌《きげん》に頬《ほお》を緩《ゆる》ませる。いや、でも寝ないで下さい。  南|側《がわ》の直線も半分を消化する。風に晒《さら》されない状態は一種快適さがあり、普段《ふだん》は何気なく暮らしている家屋の役目を再|認識《にんしき》する。僕の実家、それに叔父《おじ》の家も木造建築で、火事と地震《じしん》が弱点な設計だったけれど、風雨には強い。その有《あ》り難《がた》みが身に染《し》みて理解できるというものだ。  などと悟《さと》ったような思考をしてられるのも、南にいる間だけだった。苦労は鼻の先にぶら下がっているものだ。  西側を北上する時は向かい風となっていた。ギャグ漫画《まんが》ならうひょーと叫《さけ》んで彼方《かなた》へ飛び去り、鯨《くじら》だって空を飛べる、今日という日は。 「僕が風|除《よ》けになるよ」  マユを僕の背後に隠《かく》れさせた。少しは効果があるだろう。後は、僕を何とかする。  こういう時の対処法は、頭を狂《くる》わせるに限る。狂人《きょうじん》の真似《まね》をするのだ。フリかどうか些《いささ》か疑わしいが、とにかく意図的に壊《こわ》れさせる。感覚を繋《つな》げないようにすればいいのだ。全《すべ》ての感覚は僕の何か、そう第六感の綜合《そうごう》により示される事象を分解し解体し享受《きょうじゅ》し受け持ち伝達し共感覚、失われたその二重の交差が音の色を文字の色を溢《あふ》れさせる瞬間《しゅんかん》を認識《にんしき》することで別世界新天地涅槃《ねはん》来世の総括《そうかつ》へ流転《るてん》するに相応《ふさわ》しい矜持《きょうじ》が得られることは明白極《きわ》まりない論理に従い、西|病棟《びょうとう》の脇に一般《いっぱん》客へ有料開放されている温泉を通りすぎ、何だか不明瞭な工事を日課としている土地の片隅《かたすみ》に、旧病棟があって到着《とうちゃく》した。狂った箇所《かしょ》を修正する(出来てるのか?)。  旧病棟は、現在の病院には及《およ》びもしない、こぢんまりとした建物だった。二階建てで、正面のベランダが妙《みょう》な不気味さを醸《かも》し出している。今にも誰《だれ》かが窓際《まどぎわ》から僕らを見下ろしてきそうな、B級ホラー臭《くさ》さがある、と思ったら途端《とたん》に不気味さはなりを潜《ひそ》め、昔見たゾンビ映画が頭の片隅で上映された。  建物の周りを囲うように、中身のたんと詰《つ》まったゴミ袋《ぶくろ》が散乱している。夢のないサンタの荷物だ。外にはそのうち回収されるゴミ、中には回収されないことが目的の不法投棄物《とうきぶつ》。黒い冗談《じょうだん》は程々《ほどほど》にしよう。  入り口は、関係者以外は立ち入り禁止という、創意|工夫《くふう》の片鱗《へんりん》もない警告が張り紙として機能していた。僕らは、入院しているなら開係者だろう、いや地元民だから関係していないはずがないと自己|認可《にんか》して迷わず入ることにした。実際はそんなこと考えもしてないけど。  正面の戸は鍵《かぎ》がかかっているけど、二度|揺《ゆ》さぶったら簡単に解除された。根性なしである。 「この前はここの裏で待って、誰《だれ》か出てってから入ったの」 「うむ、賢《かしこ》い」  今度は頬《ほお》をほころばせた。僕の左|隣《となり》の定位置に復帰する。  礼儀知らずのバカップルはお邪魔しますの一言もなく、土足で上がり込む。玄関脇の下駄《げた》箱には当時の焦《こ》げ茶色のスリッパが揃《そろ》えてあり、現役のつもりであることを病院が主張しているみたいだった。勿論履《もちろんは》き替《か》えず、土足でスタコラする。  自動ドアなる面妖《めんよう》な設備はない。柑ち果てる寸前の扉《とびら》を開けて受付を訪ねると、乾《かわ》いた臭《にお》いと埃《ほこり》が冷やかし客を舞踏《ぶとう》で出迎えてくれた。息をするのも躊躇《ためら》う、塵《ちり》の海。失礼、川。地元の海というものに正しく地続きでない土地の人間が、海など例えに使うのは恐《おそ》れ多い、と今何となく思ってみた。明日には忘れているだろう。  マユの操《あやつ》る懐中電灯《かいちゅうでんとう》が、中身を剥《む》き出しにした長|椅子《いす》を、受付の側《そば》にあるコバルトグリーンのメッキがほぼ剥《は》げた公衆電話を、耳が片方取れたウサギ人形を照らし出す。受付の奥の、治療《ちりょう》室に繋《つな》がる扉が半開きなのも、意外と高得点である。それに加え、耳鳴りがするほどの静寂《せいじゃく》、は規則正しい音色が許してはいない。  待合いの長椅子が連なる上にある壁《かべ》かけ時計だけは作動し、かつて病を刻んでいた場所で秒を刻んでいる。指し示す時刻は現代と多少時差があり、過去を刻んではいるけど動作に戸惑《とまど》いも躊躇いもない。お化け屋敷《やしき》として売り出すのに失敗でもしたのか? と勘繰《かんぐ》ってしまう。  マユを横目で見ると、一寸たりとも恐怖《きょうふ》を感じず、院内で電灯の光を縦横に遊ばせている。時間に置き去りにされた空間が物珍《ものめず》しいわけではないだろう。マユにとって、これは輝《かがや》かしすぎて何もかもが区別のつかない過去を想起する探検ごっこであり、行為《こうい》の過程は意味を成さないのだ。まあ、彼女なりの良い結果があるなら、それで十分だ。  床《ゆか》はみしりとは軋《きし》まず、パキパキと何かが砕《くだ》ける予兆《よちょう》段階に達している。松葉杖《まつばづえ》を突《つ》くことに多少の不安を煽《あお》られる。受付の右脇から奥に通じている道があり、そこへ向かう前に、古めかしい機械が放置されていた。血圧の測定器のようだけど、クモの巣《す》が張り巡《めぐ》らされて触《ふ》れる気は起こらない。 「理科室と保健室を足した感じだねー」  マユの陽気な意見に、僕は感心する。病院ってのは、そういうところだよな。 「死体は何処《どこ》に仕舞《しま》ってあるの?」 「二階のね、薬の臭《にお》いがいっぱいするところ」  ほお。腐臭《ふしゅう》をごまかせるし、悪くない場所を選択《せんたく》したわけだ。 「まーちゃんは、死体を運んでる人を何処から追いかけたんだ?」 「んとね、部屋の窓から変な人を見て、何となく追っかけたの。で、ここの近くでおー死体だーって分かったの」 「ふぅん……その怪《あや》しい人は他《ほか》に何か持ってた?」 「ううん、死体をおんぶしてたもん」 「……うわぁ、肝試《きもだめ》しすぎだな」 「ということで、まーちゃんもおんぶ」  むしろしてくれ。  それにしても何でこの子は、そう無謀《むぼう》な行動に出ちゃうかな。階段とか一人だと危ないのに。恐《おそ》らく、これに関しては明確な解答なんて存在しない、詐欺《さぎ》のような問題なんだろうけど。  欲求の発露《はつろ》として犯罪を行うことと同様、理知的な理由のない、悪意への惹《ひ》かれなのだろうから。  奥に少し進むと、更《さら》に右へ廊下《ろうか》が寄っていた。階段は、マユが言うには二つぐらい病室を過ぎた先にあるらしい。歩行する度《たび》に床《ゆか》の埃《ほこり》が舞《ま》い、足首を濡《ぬ》らすようにまとわりつく。  そして通路を進むと、新|病棟《びょうとう》に面した、外|側《がわ》の廊下に出た。  鋭利《えいり》な月の光が微《かす》かに床を塗《ぬ》り、退廃《たいはい》に神秘をトッピングする。  夜の王様は出没《しゅつぼつ》しないまでも、ミミズクの鳴き声ぐらいは遠くから木霊《こだま》しそうな環境《かんきょう》が、僕らの進む道だった。時折、外の風が入り込んでくるので窓を見ると、半分ほど硝子《がらす》が割れている箇所《かしょ》があった。しかし、腐食《ふしょく》の進んだ廃院《はいいん》をライト片手に探索《たんさく》していると、埼玉《さいたま》の廃村にでも紛《まぎ》れ込んだ錯覚《さっかく》に陥《おちい》るな。死体が復活しないことを軽く祈《いの》っておこう。  廊下の途中《とちゅう》に通りがかる病室は、毛布のない寝台《しんだい》が六つ設置されていた。誰《だれ》かが最近使用した形跡《けいせき》はない。どうせなら、名和三秋《なわみつあき》をここで眠《ねむ》らせてやればいいのに、と犯人の心境や都合を計算に入れないで思ってみた。けどそんなことをしたら、いつの間にか他《ほか》のベッドにも見知らぬ死体が……なんて五流の怪談《かいだん》に発展すると困るかもなぁ、と考えを改めた。  床に散っている、割れた硝子を杖《つえ》で踏《ふ》みつけないよう、また足取りの危なっかしいマユがその上へ転ばないよう病室|側《がわ》を歩かせ、細心の注意を払《はら》って腐《くさ》り木の通路を進む。  その間、マユは前方を、光線の当たる先を凝視《ぎょうし》していた。  僕の視線に気付いたのか、首をゆっくりと右に捻《ひね》る。  暗闇《くらやみ》にも目が順応し、マユの朗《ほが》らかな笑い顔が見やすくなった。大変良いことだ。 「ねぇ、みーくんはいつ退院するの?」  何やら、あまり現状と関連のないことを思考していたらしい。 「そだね、使う松葉杖が一本になる頃《ころ》かな」  実際のところは、いつになるか見当つかなかったり。 「まーちゃんは後一週間で退院なのです」 「じゃあ、僕もその日にまーちゃんの家へ戻《もど》ろうか」  それが模範《もはん》解答だった。マユは満足げに目を細めて「そうしよー」と同意し、足取りも軽くなる。それに並ぶ為《ため》に、僕は移動の仕方を多少変更《へんこう》する。松葉杖を前に突《つ》き、足を運ぶ際に床を強く蹴《け》るようにする。それで、少しは速度と歩幅《ほはば》が上昇《じょうしょう》する。 「傷、残るかな?」  マユが頭部の傷を、僕が巻き直した包帯の上からさする。自分と他人、植え付けられた傷はどちらがより痕跡《こんせき》を残すのだろう。そういえば、僕の頭にも一つ、傷がある。これをお揃《そろ》いだねと微笑《ほほえ》ましく語ることは僕らでも敷居《しきい》が高い。 「傷があっても、まーちゃんはまーちゃんだよ」  意味不明にマユの存在を肯定《こうてい》してみた。マユも絶対に意味を理解していないけど、どことなく嬉《うれ》しそうに顔を緩《ゆる》めたので言った価値はあった。  二つ目の空き病室を過ぎて、マユの話通りに階段があった。旧式の建築物でも流石《さすが》は病院、手すりがある。けど旧式である故《ゆえ》、階段自体に問題がある。足を載《の》せただけで板がへし折れそうな、アンティークと無縁《むえん》の古めかしさが不安の源泉になっている。  そうやって僕が二の足を踏《ふ》んでいる横をすり抜《ぬ》け、マユが手すりを握《にぎ》って二階へ登り出す。冷静になってみれば、一人の人間を抱《かか》えた犯人が登って健在しているのだから、見だ目より中身重視なんだろう。松葉杖《まつばづえ》を片手で二つ持ち、手すりを利用して緩慢《かんまん》にマユの尻《しり》を追いかける。  マユがいち早く登りきり、ライトで僕の足下《あしもと》を明確にしてくれる。七段目には、羽が風化しかけている蝶《ちょう》の死骸《しがい》が横たわっていた。ここ数日で誰《だれ》かに踏《ふ》まれた痕跡《こんせき》がある。融通《ゆうずう》の利《き》かない足の踏み場なので、僕も贅沢《ぜいたく》を言ってられない。踏み潰《つぶ》して頂上を目指した。  無事、転げ落ちずに登頂に成功した。手の平が疲弊《ひへい》と痛覚を背負い出したけど、タイムアウトはまだ早い。それよりも、左に見える部屋から生ゴミに酢《す》を降りかけた臭《にお》いがするんだけど。 「あの部屋だよ」と、鼻を摘《つま》みながら、マユが指さす。回れ右をしたくなった。  マユに付いて部屋へ入る。そこは病室ではなく、かといって医務室という様子もない。地震《じしん》でもあったのか、横倒《よこだお》しになった本棚《ほんだな》から飛び出ている医学書や、ビーカーの破片が床《ゆか》の絨毯《じゅうたん》代わりとなっている。広さは、学校の理科室より多少|狭《せま》い、といったところか。  中央付近の樫《かし》の木製テーブルには、中身のない薬|袋《ぶくろ》が散乱し、埋《う》め尽《つ》くされている。薬局代わりだったのかも知れない。が、この病院のドラマなど僕にとってデシリットル以下の価値でしかない。重要なのは、場所としての意味だけだ。  マユは一人で奥へ一直線に突《つ》き進み、部屋の隅にある扉の前で足を止めた。ぴょこぴょこと跳《は》ねて僕を手招きする。菓子《かし》パンも鞄《かばん》に詰《つ》め込んでいたし、簡単なピクニック気分なのかも。微笑ましいなぁ、と前向きに解釈《かいしゃく》した。  僕も通例に則《のっと》り、「待てよぉこいつぅ」的なニュアンスで手を振《ふ》り返してマユの下へ緩《ゆる》く走った。まあ嘘《うそ》だけど。  木製の扉は、奥の資料室に繋《つな》がっていた。室内は医学書と薬学書が戸棚の硝子《がらす》を割って、床へ山|崩《くず》れを起こしていた。薬品の臭いに混じり、紙|粘土《ねんど》のような匂《にお》いが漂《ただよ》っている。  マユは「あれあれ」と指さして僕を誘導《ゆうどう》する。へしゃげたダンボール箱の積まれた横に、中型の長方形を生業としている箱。入り口付近のロッカーの前を横切り、光を浴びた箱の種類を視認《しにん》する。電源の切れた、中型の冷蔵庫だった。 「ここに?」 「うん」  この中に、肉を保管してる。  どんな悪質な冗談《じょうだん》だよ。 「てけててーん」  いやそんな夢と欲望に充《み》ち満ちた効果音いらないから。ガチャリと。 「………………………………………………」  安っぽいスポットライトを浴びた、名和三秋《なわみつあき》と思《おぼ》しき女子は、体育座りをしていた。首が百三十度ほど右に傾《かたむ》いていて、赤紫《あかむらさき》の死斑《しはん》が額や、恐《おそ》らく尻《しり》にでも浮かんでいるはず。肌《はだ》全体はまだ腐《くさ》り始めといった様子だ。バナナだったら食べ頃《ころ》だけど、生憎《あいにく》、死体に盛《さか》りはない。  パジャマの裾《すそ》から覗《のぞ》く右足は、包帯がぐるぐると包囲中。怪我《けが》の場所まで共通してるなんて親近感|湧《わ》くなぁ、と宣《のたま》えばまーちゃんにヤキモチ妬《や》かれちゃうので、自粛《じしゅく》した。  マユの肩《かた》を借りて、慎重《しんちょう》に屈《かが》む。死体と目線を同列にして、調査に乗り出す。 「手袋《てぶくろ》出してくれる?」  僕の指示に従い、マユが鞄《かばん》から取り出した手袋を譲《ゆず》り受け、両手の指紋《しもん》を無効にする。冷凍《れいとう》庫でもないのに凝《こご》り固まった死体を引きずり出し、些《いささ》か範囲《はんい》の限定された白日の下《もと》に晒《さら》す。  死体を直《じか》に眼で見聞するのは、随分《ずいぶん》ご無沙汰《ぶさた》していた。  最初に目視したのは、母親の死体。……そういえば、明日が命日か。墓参り、行かないと。 「胸とか触《さわ》っちゃだめ」「はいよ」「太股《ふともも》も」「はいよお」「脇《わき》も」「どっこいしょぉ」「やっぱり全部だめ」「ぇらっしゃい」  話が進展しないので有耶無耶《うやむや》になってみた。  まずは興味本位で瞼《まぶな》を上げてみる。眼球は濁《にご》り、瞳孔《どうこう》が完全に終焉《しゅうえん》していた。死体として雇用《こよう》されてから数日間が経過していることはこれで証明された。瞼を戻《もど》し、奇顔《きがん》から眠《ねむ》れる死体に修正する。 「お医者さんごっこみたいだね」  照明係のマユが死体を眼中に入れないで感想を述べる。刑事ごっこの方が適当じゃないかと思いつつ、「懐《なつ》かしいね」と言ってみた。 「みーくんはよく患者《かんじゃ》さんをやってたよねー」  やはりやってやがった、しかも、菅原《すがわら》の嗜好《しこう》は僕と相|容《い》れない。  次に注目した、というより目立つのは、こめかみの巨大な痣《あざ》。饅頭《まんじゅう》の餡《あん》が透《す》けているように、青々黒々とした傷|跡《あと》をこさえている。その中心地から頬《ほお》、顎《あご》にかけて乾《かわ》いた血粉《けっぷん》が付着している。これが死因でなかったとしても、犯人の手による痛恨《つうこん》の一撃《いちげき》であることは、状況《じょうきょう》から察しない方が困難だ。  女性が病院の敷地《しきち》内で殴《なぐ》られるという事件は、マユで二件目だったわけか。  この街には解体|魔《ま》に続く第二弾《だん》として、殴打《おうだ》魔でも出没《しゅつぼつ》してるのか? しかも婦女子限定と、生々しい制約を加えて。……ま、それはないかな。 「明かり、調べるから身体《からだ》の方にお願い」  助手に指示すると、あからさまにむくれて非難を示してきた。 「別に好き好んで触《さわ》りはしないよ。それは約束する」  僕としても、途中放棄《とちゅうほうき》して去るわけにはいかない。 「僕とまーちゃんの為《ため》に、この子に触《ふ》れる許可が欲しい」 「……むー」  マユが懊悩《おうのう》している間に、両手を調べることにした。  握《にぎ》りしめた手の中には、被害《ひがい》者の無念という一念が掴《つか》んだ、犯人の唯一《ゆいいつ》の手がかりが強く残ってない。そもそも開いてるし。手の甲《こう》や平を一通り見回しても、擦《す》り傷やミミズ腫《ば》れは発見されない。抵抗《ていこう》の跡《あと》が手にはないというわけだ。潰《つぶ》れてないマメならあったけど。  ……松葉杖《まつばづえ》、ねぇ。  それはさて置き、死に顔に苦悶《くもん》がないことを見ても、意識不在のまま他界した、という可能性が高い。無念さえ、手にする猶予《ゆうよ》はなかったのか。 「………………………………………」  僕は不謹慎《ふきんしん》な奴《やつ》であり、故人《こじん》に敬意は払《はら》わないし、捻《ひね》った感性で物事を判断する人間だけど。  黙禧《もくとう》だけは、捧《ささ》げた。女子の裸体《らたい》を、本人の許可なく見るわけだし。  瞼《まぶた》を開き、死体以外の視線を感じたのでそれに応じる。  マユは、ゆっくり、居眠《いねむ》りで船を漕《こ》ぐように首を縦に揺《ゆ》らした。 「うん、いいよ」  不承不承に、僕の要求を承諾《しょうだく》する。 「ありがと。まーちゃんは優《やさ》しいね」 「寛容《かんよう》なのだ」  うむ、僕にとっては慣用句だよまーちゃんは。 「なのだー、けどー……」  ほら来た。 「けどー、続きあり?」 「うん、一個だけ」 「なに?」 「××してるって言って」  聞いた瞬間《しゅんかん》、血の気が派手に失われた。  頭痛が発症《はっしょう》し、目眩《めまい》までする。叶《かな》うなら、その場で死体の上へ倒《たお》れて全身を掻《か》きむしりたい。  指先の痺《しび》れた手を床《ゆか》に突《つ》き、狼狽《ろうばい》を最小限に抑《おさ》えようと努力する。 「それで今回だけは目をつぶったげる」 「……マヂで?」  当然じゃん、とマユは胸を張る。 「だってみーくん、全然言ってくれないもん」 「そりゃ、ぇ、まあ……ね」 「わたしのこと、××してないの?」  いやしてるしてる、だから他《ほか》の言葉でそれを表現してくれ。  やりすぎると、僕が終わるから。  ていうか言ったじゃん、デパートの屋上で。  こら、胸元《むなもと》に縋《すが》りつかない、の、「言えないの? みーくんなのに」  涙目《なみだめ》で見上げる、なんて好意的反応じゃなかった。  僕の心臓を覆《おお》うように、握《にぎ》り潰《つぶ》す前置きのようにマユの手の平が胸元に張り付く。 「約束したのに」  二度目の念押しは、既《すで》に脅迫《きょうはく》の部類を踏《ふ》み越《こ》え始めた、単純な危険の前触《まえぶ》れだった。  開いた瞳孔《どうこう》が、僕を苦心なく飲み込む。  鞄《かばん》を探る右手は、何を意昧しているのか。  ……くそぉ。後ろも前も逃《に》げられないのか。  笑えと言ったり、隣人《りんじん》を何ちゃらせから何ちゃらを抜粋《ばっすい》して言えときたり。  どうしてこう、まーちゃんの要求は難解なのやら。  覚悟《かくご》の芽生えはないまま、行動に移る。  唾《つば》を飲み込み、マユの肩《かた》に手をやる。  片耳を軽く押さえ、命名者である母親を想起し、  震《ふる》える舌に重労働を課した。 「××してるよ」  ガリガリと、耳の中が削《けず》れる。 「まーちゃんは×嬌《きょう》があるし×想も良いし、×に×持つって言葉の象徴《しょうちょう》だね。可×らしくて本当に×らしい。×好心をくすぐるその笑顔も堪《たま》らない。恋×の本当の意味が、今ようやく分かったんだ。×は惜《お》しみなく与《あた》え、×は惜しみなく奪《うば》う、正《まさ》にその通りだよ」  ガリがりガリガリがリガりガリ。  僕は精|一杯《いっぱい》せいいっぱいせいいっぱい、マユに伝え続けた。 「わたしもね、みーくんを誰《だれ》よりも××してる」  まーちゃんのご満悦《まんえつ》な笑顔《えがお》に、ざーざーと耳鳴りが負ぶさり重なる。  限界だった。  耳にあった手を口に運び、逆流する嘔吐《おうと》物を堰《せ》き止める。  そして胃に再逆流させる。  ごっくごっくと飲尿療法《いんにょうりょうほう》と青汁健康法をブレンドした壮絶《そうぜつ》な代物《しろもの》を、喉《のど》を鳴らして胃に収める。 「どした、みーくん」  咳《せ》き込み、胃液の残滓《ざんし》は床《ゆか》へ散った。喉仏《のどぼとけ》に張り付く胃酸の残《のこ》り香《が》に辟易《へきえき》する。 「感|極《きわ》まったんだ、まーちゃんへの想《おも》いで」  本当は、安の草体と以の草体が胃もたれしたってところかな。  背筋の歪《ゆが》みを正し、深呼吸を数度行い、首を左右に振《ふ》る。  よし、次行こう。  ほつれも痛みもないパジャマのボタンを全《すべ》て外す。失礼、と断りを入れながら脱衣《だつい》させ、裸体《らたい》を冬の夜に浸《ひた》す。文句はマユからだけで、本人の苦情はないあたり、不幸中の幸いといったところか。マユは本当に目を瞑《つぶ》っている。律儀《りちぎ》なのか、意味を取り違《ちが》えているのか。  上半身の表には目立ったものがない。いや、それは彼女の発育を侮辱《ぶじょく》しているわけでは毛頭ないんだけど、胸部周辺をねちっこく観察しようものなら、捨て身で解除した隣人《りんじん》の怒《いか》りを取り戻《もど》す結果になることは明白なのである。薄目《うすめ》空いてるし。  一頻《ひとしき》りの観察が終了《しゅうりょう》して、背中ならチェックも緩《ゆる》くなるだろう、と楽観な解釈《かいしゃく》をして裏返した。「へぇ……」と、軽く感想の吐息《といき》。  背中には犯人の性癖《せいへき》でも発散したのか、こめかみ部分程の大きさではないにせよ、痣《あざ》が浮かび上がっている。首の下|側《がわ》、腰《こし》、それにふくらはぎにも。他《ほか》に特に傷は見当たらない。  もう一度ひっくり返す。上半身を、高速でくまなく確認《かくにん》する。後、顔も触《ふ》れて確かめる。  ……ない、な。 「ふぅん」  ……ふぅん。 「よし、終わり」  宣言すると、マユの瞼《まぶた》が平常時まで開いた。一度、目を擦《こす》る。  おベベを元通りに着せて、名和三秋《なわみつあき》が生前にも死後にも望むとは考え辛《づら》い寝床《ねどこ》に帰らせる。  角度には多少気を遣《つか》い、押し込んで閉じる。いつかは墓《はか》の下に行けるといいね、と他人事として祈《いの》った。 「……じゃ、コンビニでも行こうか」  松葉杖《まつばづえ》で床《ゆか》を軋《をし》ませながら、不格好に立ち上がる。マユは「うーん」と顎《あご》に手を当て、納得《なっとく》のいかない面持《おもも》ち。 「あんまり探検出来てないなー」 「それはまた今度の機会にね」  ないと知りつつそうほざいて、マユをなだめる。  手袋《てぶくろ》を外し、鞄《かばん》に返す。  それから資料室を出る前、窓際《まどぎわ》でマユが「ねーねー」と僕を呼び止めた。  マユは持参した、ビニール袋《ぶくろ》に包装された三色パンを、微笑《ほほえ》みとセットで僕に晒《さら》す。 「パン食べよー。食パンじゃないけど」  ふむ、昔は給食の残りをおやつにしてたみたいだな。  僕は流し目で後方の冷蔵庫を振《ふ》り返る。中にお住まいの彼女の消化器官が活動しているなら、仲良く三分割出来たのに、と想像したけど、マユが邪険《じゃけん》にするだろうなと結論づけた。 「いいよ。まーちゃんはどの部分がいい?」  チョコ、クリーム、抹茶《まっちゃ》の明らかに仲間外れがいる取り合わせ。おのれ西洋め。 「んーと、みーくんは抹茶だよね?」  苛《いじ》められっ子に決定されていた。僕は骨の髄《ずい》から、菅原《すがわら》とは相|容《い》れないらしい。 「じゃあ、残りはまーちゃんが食べる方向で」  その配分に、マユは過去との合致《がっち》を感じて微笑《ほほえ》む。東洋色したパンを受け取る際に触《ふ》れたマユの指先は、死体とは別種の柔《やわ》らかさだった。流石《さすが》、美人のまーちゃんである。  僕らは窓際の壁《かべ》を支えとして横並びになる。松葉杖《まつばづえ》を手放し、生者の特権を死体に見せつけるように、名和三秋《なわみつあき》と同室でパンを頬張《ほおば》る。肌《はだ》と垢《あか》と蝿《はえ》と蛆《うじ》の混合物みたいな、名和三秋の味がした。……まぁそれは嘘《うそ》だけど、パンの触感《しょっかん》や掠《かす》れ具合は、死体の肌と大差ない。  咀嚼《そしゃく》を繰《く》り返すと、微妙《びみょう》な味わいに口を占拠《せんきょ》される。抹茶が好物でないことに加えて、自家製の調味料である胃液の余りが食欲の奮《ふる》い立ちを妨害《ぼうがい》する。死体と相部屋で食事するという、平和な現代日本の風潮に逆らった愚行《ぐこう》を増幅してくれる。  もふもふと僕の好物をばくついているマユに羨望《せんぼう》を向ける。けどその動作は可憐《かれん》の一言に尽《つ》き、それを鑑賞《かんしょう》出来るなら構わないか、と納得《なっとく》してしまう。美人は得だ。  抹茶パンを纏《まと》めて口に放《ほう》り込み、天井《てんじょう》を見上げる。クモの巣《す》も鼠《ねずみ》の糞《ふん》も虫の卵も、暗闇《くらやみ》に彩色《さいしき》されて視界に映らない。見えないものは、有無から認識《にんしき》する必要があるわけだ。 「………………………………………」  マユは、僕をどんな姿形の生物として目《ま》の当《あ》たりにしているのだろう。 「ねーみーくん」 「ん、僕に残りを食べてくれと?」 「誰《だれ》かこっちに来るよ」  喉《のど》に詰《つ》まってむせた。パンの粉が喉仏《のどぼとけ》で踊《おど》り、呼吸を妨《さまた》げる。 「ん、あー、ごめんね。飲み物持ってくるの忘れちゃった。うっかりさんなのです」 「ぞんなことより、誰かって? 何処《どこ》?」  僕が問いつめると、マユは窓の外を指さした。その先に目を凝《こ》らすと確かに、細長い人型の影《かげ》が微細《びさい》に揺《ゆ》らめき、病棟《びょうとう》の正面|扉《とびら》を目指している。僕はマユを引っ張って窓際から離《はな》し、ライトの息の根を止めてから松葉杖を慌《あわ》ただしく掴《つか》む。 「あくしでんつ?」  動じないマユは、小首を傾《かし》げて鞄《かばん》を漁《あさ》る。まずい、このままではナイフが飛び出す。  僕は首を派手に回し、身を隠《かく》す場所を早急《さっきゅう》に求めた。不動産屋も見当たらないこの場所では、自力本願しかない。暗闇《くらやみ》の中を、目を細めて探り続けた。  焦《あせ》りに煽《あお》られながらも、扉《とびら》の脇《わき》、部屋の手前におあつらえ向きのロッカーを発見する。そこしかないと決めつけ、誰《だれ》かが建物内へ入って音を耳にする前に、行動に移した。 「まーちゃん、おいで」  松葉杖《まつばづえ》を抱《かか》え、 一本足で飛び跳《は》ねてロッカーに辿《たど》り着く。本当はこの移動を禁止されているけど、緊急《きんきゅう》事態には医者の忠告に従う理由がない。まず、資料室と大部屋を結ぶ扉を閉じた。  マユは避難《ひなん》訓練の時ぐらい緊張《きんちょう》感なく、てこてこと歩いてくる。焦燥《しょうそう》に血液の循環《じゅんかん》が加速している僕は気が気でない。ロッカーを開き、掃除《そうじ》用具のないことに安堵《あんど》して中へ身を滑《すべ》らせる。縁《ふち》に引っかかる松葉杖と、マユの手を取って抱《だ》きしめる形で引き入れる。 「なーんかわくわくですな」  にゅふふ、と興奮《こうふん》を抑《おさ》えずに笑うマユ。  自分の小心を嘆《なげ》くか、この子の大物を賞賛するか、悩《なや》んで頭痛がしてきた。  絶対に、声を出したり動いちゃ駄目《だめ》だよ。  囁《ささや》くと、吐息《といき》がかかったのか、くすぐったいとマユが悶《もだ》える。果てしない不安を、僕はただ強く抱擁《ほうよう》した。  汚《よご》れた雑巾《ぞきん》の悪臭《あくしゆう》がするロッカー内で息と身を潜《ひそ》め、状況《じようさよう》を考察する。  一体、誰《だれ》が夜も更《ふ》けた頃合《ころあ》いに、幽霊屋敷《ゆうれいやしき》もどきを訪《おとず》れる?  勿論《もちろん》、ここに死体を隠匿《いんとく》した奴《やつ》に決まってる。つまり、犯人だ。  けど、何故《なぜ》?  目撃者が出れば、致命《ちめい》傷になることぐらい犯人だって理解してるはず。  この場所へ足を運ぶのは迂閣《うかつ》でさえある。  つまり僕と同様、犯人はその危険に抗《あらが》う必要がある、ということ。  死体の隠《かく》し場所でも変更《へんこう》するつもりか?  魂いは、何かを確認《かくにん》する為《ため》?  目まぐるしく脳味噌《のうみそ》を回転させても、納得《なっとく》のいく犯人の動機は思いつかない。  犯罪者の心理は、真に理解し難《がた》い。特に誘拐《ゆうかい》犯なんて、埒外《らちがい》というか放送禁止用語というかね、うん、僕らなんだけどね。  次の懸念《けねん》に移る。  犯人は僕らの存在を知っているか?  これが重要である。是《ぜ》であるなら、僕たちは好きこのんで逃《に》げ場のない場所に入ったことになる。ただ、その可能性は低いと楽観なく判断出来る。  犯人からすれば、名和三秋の死体を知る者がいたとするなら確実に口封じの為の行動に出るはずだ。あのような堂々とした移動をする意味がない。細心の注意を払《はら》って尾行《びこう》し、僕たちを処理する。僕が犯人なら、存在を知られないことに何より気を配る。  よって、犯入は自身の目的を達成すべく旧病棟《びょうとう》に足を向けたわけで、それ以上の理由はないと推測《すいそく》する。  実行に踏《ふ》み切る時間帯が似通っているのは、皆《みな》考えることは同じ、という理屈か。  階段に足をかける、微《かすか》かな音。当分は無理そうなので、今のうちに唾《つば》を飲み込んでおいた。  杖《つえ》が扉側《とびらがわ》に傾《かたむ》かないよう、肘《ひじ》で押さえつける。月明かりも圏外《けんがい》の、完全な黒色に染まったロッカーの中で、何が可笑《おか》しいのか、マユの微小《びしょう》な微笑《びしょう》が、振動《しんどう》として上半身に伝わってくる。  その余裕《よゆう》に、僕も微量の安堵《あんど》を摂取《せっしゅ》する。  一段、一段と上へ来る音が、振動が増加していく。  かつて、親父《おやじ》が地下へ下りてくる時の感覚が、鳥肌《とりはだ》として甦《よみがえ》る。  緊張《きんちょう》と過去に絞首《こうしゅ》され、気道の不全で息が喘《あえ》ぐ。  最後の問題。  犯人が僕らに感づいた場合、どう対処するか。  犯人|側《がわ》は当然、口封じを目的として動く。僕らは無論、それに抵抗《ていこう》する。  流血|沙汰《ざた》を免れることは、マユが御園マユである以上、不可能に等しい。  後は、巡《めぐ》り合わせがないことを祈《いの》るだけだ。  神様には頼《たよ》らない。  昔、あれだけマユが願ったことを何も叶《かな》えてくれなかったから。  遠くて近い、曖昧《あいまい》な距離《きょり》に足音が上陸する。手前の部屋に入ったらしい。  聴力に特化した人なら、床《ゆか》を踏《ふ》む際の音量で男女の区別をつけられる。ただ、僕にそんな芸当は高度すぎる。  ドアノブが捻《ひね》られる音に、頭の一部を鈍重《どんじゅう》にさせられる。仰々《ぎょうぎょう》しく扉《とびら》を仰《あお》ぎ、犯人は床と紙の束と硝子《がらす》を踏みしめて、僕たちの隠れ潜《ひそ》む部屋を闊歩《かっぽ》し出す。犯人の足取りは迷いがない。  足音が安否の、恐怖《きょうふ》の、全《すべ》てを支配していた。マユも身動《みじろ》ぎ一つしない。  焦《あせ》らない、歩調を乱さない犯人。ロッカー前を通過する音には流石《さすが》に胃が抑圧《よくあつ》された。  犯人のお目当てである、冷蔵庫を開く音がする。死体は上手にお片づけ出来ていただろうか、と手に汗握《あせにぎ》る一瞬《いっしゅん》だ。  犯人は心拍《しんぱく》数まで存在していないかのように、無音を保つ。  こちらの精神が参らないよう、気を紛《まぎ》らわすことにした。具体的には、ただ秒数を心中で数えるだけの、地味に意味のない退屈しのぎ。  二百十四の時点で、動きがあった。  とん、と何かが床に落ちる軽音。その後に続く、ぎぎぎ、と比重をかけられて苦情を漏《も》らす床《ゆか》。疑問|符《ふ》の渦巻《うずま》く僕の鼓膜《こまく》を、更《さら》に新たな音波がかき回す。耳を澄《す》ますと何か、犯人が小声で呟《つぶや》いているのが聞き取れる。二人組だったのか? と勘繰《かんぐ》るが、今までの足音からすれば、片割れが三センチほど宙に浮いていなければそれはあり得ない。つまり、犯人は名和三秋《なわみつあき》に意思を伝えているわけである。……疎通《そつう》出来てるのか? どっちの方がより恐怖《きょうふ》の事態を招くか、状況《じょうきょう》をなかったことにして考え込んでしまいそうだ。  祝詞《のりと》、恨《うら》み節、結婚スピーチ。何を、犯人は死体に捧《ささ》げているのか。  僕が二千百七まで秒数を刻んだ時にようやく、犯人の呟きは終了《しゅうりょう》する。  遠ざかっていく足音。帰りは小走りなのか、倍速で階段を駆《か》け下《くだ》るのが伝わってきた。  カウント三千百二まで耐《た》え、意を決して外に出ようとした時に、腕《うで》の中のマユが平穏《へいおん》な寝息《ねいき》を立てていることに気付いた。僕はその堂々とした態度に感心し、その後に暗闇《くらやみ》と夢の食い合わせの悪さを思い出して、マユの肩《かた》を揺《ゆ》さぶった。マユは珍《めずら》しく、素直《すなお》な寝覚めの良さだった。  目を擦《こす》るマユに続いて出た外の空気は一層、清々しい不味《まず》さだった。  冷蔵庫に目をやると、僕が開閉した時と何ら変化は見当たらない。  一応、松葉杖《まつばづえ》を取っ手に引っかけて開け放しても、名和三秋さんは死体|満喫《まんきつ》中でご健在だった。  結局、何だったんだ?  僕の疑問に返答する人が、周囲にいないことを希望する。  マユはふひゅひゅ、と頬《ほお》を空気で膨《ふく》らませて独自の笑い声を作る。  笑う用が済んでから、ぽへっと空気をポイ捨てする。 「みーくん、心臓がばくばくしてたよ!。聞いてたら、なんか寝ちゃった」 「ああ、そうだね……」  脱力《だつりょく》して、床《ゆか》に尻餅《しりもち》をついた。  本と硝子《がらす》の破片を座布団代わりにして、窓の外に広がる暗雲の空を見上げる。  雲は滞《とどこお》りなく空を遊泳し、月を出し惜《お》しみしている。  マユも分厚い辞書を選んで尻の下に敷《し》き、並んで座る。 「満月、じゃないね。なんて言うの?」  居待《いまち》、だったかな。半月でないことは確かだ。 「何だろう。月見はしたこと、」  僕はつい、マユの顔色を窺《うかが》った。マユは柔《やわ》らかい、笑顔《えがお》ともまた異なる表情で、 「今日が初めてだね」 「……うん」  どうしてか、その二文字の言葉を口にするのが難儀《なんぎ》だった。  けれどそこに、不快はなかった。  マユも僕も、ここに死体があることを意識の片隅《かたすみ》から脱落させて、寡黙《かもく》に月を見据《す》える。  名前の分からない月。  それでも、僕らに光は届いた。  風情《ふぜい》のなさが、ただ相応《ふさわ》しかった。  夜間においては、この病院の駐車《ちゅうしゃ》場出口から外へ出られることを、大抵《たいてい》の入院|患者《かんじゃ》は知識として備えている。看護師さんも知っている人が多数で、医者も勿論《もちろん》そうではあるけど、見過こし状態になっている。病院の食事量が少ないという不満に対して、こういった暗黙《あんもく》の方法で対処しているわけだ。  よって、近場のコンビニはパジャマを着た入院患者を主客として繁盛《はんじょう》している。田舎《いなか》にしては珍《めずら》しく、駐車場の必要性が薄《うす》い店舗《てんぽ》である。そこは商売|側《がわ》も考慮《こうりょ》し、駐車用の敷地《しきち》を削《けず》って店自体を拡大《かくだい》している。  駐車場の脇道《わきみち》から、道路に出る。アスファルトの上は松葉杖《まつぼづえ》の突《つ》き心地《ごこち》が良い。もっとも、雨降りの後みたいに濡《ぬ》れていれば、どの道だって悪夢だけど。二週間ほど前、僕は無謀《むぼう》にもそんな日に外出して六回転んだ。ご一緒《いっしょ》していた同室の中年に助け起こされた、今となってはほろ苦い記憶《きおく》だ。 「あっるっこー、だぶりゅーえーえるけー」  マユが無邪気《むじゃき》に、大げさに足を上げて歩く。その途中で、何か物体を蹴《け》り上げてしまった。落下地点で確認すると、歪《いびつ》な子猫《こねこ》の死骸《しがい》だった。今のが致命《ちめい》傷になったかは不明。 「はいはい、歩道を楽しく遊歩しようね」  車道の真ん中を歩きたがるマユを道の端《はし》に誘導《ゆうどう》する。まるで小学校の集団登校の気分だ。 「もー、みーくんは女心が分かってないなぁ」  口をへの字に曲げて駄目《だめ》だしされた。  まーちゃんは女心って言葉の意味が分かってないなぁ。  病院から一本外れた、コンビニに通ずる道は右手にはたんぼ、逆は工事現場に挟《はさ》まれている。マンションでも建てるらしく、完成予定は四年後と記載《きさい》されている。だから、立地条件は無視するなよと。田舎を舐《な》めるな。  憤慨《ふんがい》していると、遠くでバイクの排気《はいき》音がほんのりと木霊《こだま》した。風になりたがりなお年頃《としごろ》なのだろう。  風といえば勢いが和《やわ》らぎ、微風《びふう》になっていた。それでも鳥肌《とりはだ》の疼《うず》きは抑《おさ》えられないわけで、暖《だん》を取りたい気持ちまで薄くなりはしない。  鼻水を啜《すす》りながら、蛍光《けいこう》過多のコンビニに到着《とうちゃく》する。駐車場には軽トラが一台駐車してあるだけなのに、店内は全体的に白い連中がごった返していた。包帯とかパジャマとか肌の色とか、病院のカラーである自分が増量中である。 「ドアをくぐる手前で、マユのふにゃっとしている表情は引き締《し》まり、背筋も直線になる。  粘土《ねんど》みたいだな、と感想を持った。  店内に入ると、顔色の優れない店員の接客態度がなってない挨拶、平坦な電子音、それに肌に張っていた薄《うす》い膜《まく》を吹《ふ》き飛ばす温風が待っていた。垢《あか》が洗い落とされたようでもある。塵《ちり》と、冷気から解放されていく。 「なにか買う?」 「少し見てみる」  端正《たんせい》な澄《す》まし顔と、無駄《むだ》のない動きをこなす唇《くちびる》。 「そっか。じゃ、僕はその間にノートをコピーしとくよ」 「一緒《いっしょ》に見よ」  マユの手が僕の袖《そで》を引く。魅力《みりょく》的な提案ではあるけど。 「早くまーちゃんとこの部屋に帰りたいしさ。ね?」  その返事の前に、マユは欠伸《あくび》をする。流れる涙《なみだ》をピエロの化粧《けしょう》のように無視、「分かった」と承諾《しょうだく》する。  ノートを受け取り、マユと一旦《いったん》別れてコピー機に向かうことにした。  そしてその途中《とちゅう》に、僕は同部屋の人間と遭遇《そうぐう》した。僕らは病院|側《がわ》から問題児|扱《あつか》いされている。最年長の度会《わたらい》さんが筆頭で、毎晩ふらふら、お外を気ままに俳徊《はいかい》している。それって老人特有のアレじゃない? とか誰《だれ》かが思ったり思っていなかったり。嫁《よめ》さんに会いに行ってる、とは本人の弁。単に昼間に睡眠《すいみん》を取りすぎて、昼夜逆転の生活を送ってるだけという見解も否《いな》めない。  問題児の一角を担《にな》う高校生とは本棚《ほんだな》の前で鉢《はち》合わせた。エロ雑誌を読み耽《ふけ》っている姿が悲しく似合う高校生だ。年齢《ねんれい》自体は不詳《ふしょう》けど、どうも中学生ぐらいの扱いを自然としている。ちなみにその時、もう一人の同室者である中年さんも隣《となり》に同伴《どうはん》していた。鼠《ねずみ》は一匹《ぴき》見かけたら十匹いるのと同じ理屈だな。 「お前も来たんか」  方言が少し入っている喋《しゃべ》りで僕を確認《かくにん》する高校生。僕はどうも、この人が苦手だった。冗談《じょうだん》をあまり解《かい》さない、Caの不足がちな若者みたいだから。 「ええ、それじゃ」「待てって、ちょっと話あんの」  僕の肩《かた》を掴《つか》み、引っ張って隣に並ばせてくる。雑誌を棚に返し、にやけ面《づら》を晒《さら》してくる。 「なぁ、どっちかくれよ」 「嫌《いや》ですよ、まだ片方じゃ歩けないんですから」 「松葉杖《まつばづえ》じゃねーよ」知ってるよ。  しかめ面をする高校生は、またすぐに好色を求める顔つきになる。 「みーちゃんだかまーちゃんだっけ? そのコでいいって。むしろそのコを紹介《しょうかい》してくれ」  言い方からして、この場にマユがいることを認識していないらしい。なるほど。 「やなこった」  食料の棚《たな》を巡《めぐ》っているマユを横目で確認しながら、無礼《ぶれい》に拒絶《きょぜつ》した。話も終わったのでその場を離《はな》れようとする。 「待てっての」  どうやら、高校生の怒気《どき》を買ってしまったらしい。態度がささくれ立つ。 「彼女を人に紹介する理由はありませんから」  僕にしては正道な意見で拒否《きょひ》したのに、高校生は憤慨《ふんがい》している。やはりカルシウム不足だ。 「お前さ、そういう態度でいいわけ?」 「飾《かざ》らない性格が一部の少数派に馬鹿《ばか》受けなので」  馬鹿受けっていうのはね、人柄《ひとがら》が馬鹿として受け止められるの略称《りゃくしょう》だよ。  しかし、僕はそんな人格を多少は修理した方が安穏《あんのん》の日々を迎《むか》えられるのではないか。高校生が冬の火事から夏の火事ぐらい暑苦しさを増加させている。 「こういうことは、言いたかないけどさあ」  一度聞を取り、炎《ほのお》を表向きは鎮火《ちんか》させる高校生。  ニキビ面《づら》が不敵そうに笑う。  大貧民《だいひんみん》でジョーカーを使用する、切り札の瞬間《しゅんかん》に酔《よ》ったような頬《ほお》の歪曲《わいきょく》。 「お前ってさ、あれだろ? 誘拐犯《ゆうかいはん》の息子《むすこ》だろ?」  歯が、自然に軋《きし》んだ。  握《にぎ》りしめるノートが更《さら》に破損する。 「で、まーちゃんってのはそれを知らないわけっしょ?」  瞬《まばた》きをする度《たび》に、目玉と緋色《ひいろ》が交差する。表層が乾《かわ》く。痛む、血が滲《にじ》む。 「知ってたらさ、付き合いたいとはあんまりおもわ……ない、よ、かな?」  高校生が、僕の様子に言葉を詰《つ》まらせた。足が一歩退き、勝ち誇《ほこ》っていたニキビが萎《しお》れてだらしなく媚《こび》を売る笑い方になる。  一体、僕は今どんな面になっているのやら。 「誘拐犯の息子と知っているなら、あまり調子に乗ってからかわない方が、身の為《ため》ですよね」  僕がもっとも好まない、立場の利用の仕方。  嫌悪《けんお》感を溜《た》め込む見返りに、張り子の虎《とら》代わりにはなった。高校生が、犯罪者の血縁《けつえん》に対する独自の妄想《もうそう》で気圧《けお》され、「あーまー考えといてね」と寝言《ねごと》を捨《す》て台詞《ぜりふ》に逃亡《とうぼう》した。お買い上げすることもなく、冷やかしの立ち読み客として店外へ逃《に》げ帰った。  邪魔《じゃま》も失せたので、さっさと用件を済ませに行く。  生まれた不快感は、途中《とちゅう》で独白して吐《は》き捨てた。 「……正しいよ」  マユは、ぼくのことを覚えちゃいないんだからな。  僕には関係ないけどねー。  長瀬《ながせ》なら、今はご随意《ずいい》にって感じで構わないわけだが、どうもマユの方がお気に召《め》しているようなので。高校生も、僕も。  若千《じゃっかん》の進路|妨害《ぼうがい》に遭《あ》いながらも、目的地には到着《とうちゃく》した。一世代旧型の業務用コピー機に硬貨《こうか》を投入し、残業を開始してもらう。機械は大仰《おおぎょう》な稼働《かどう》音で、億劫《おっくう》そうに労働に従事し出す。  コピー機は文句も言わずに勤勉だなあ、と空虚《くうきょ》な感心を持ちながらこき使っていると、肩《かた》を指先でノックされたので、振《ふ》り返る。肌《はだ》が程良《ほどよ》く褐色《かっしょく》で、先程まで高校生の仲間として雑誌《ざっし》に目を落としていた中年が立っていた。この人はまだ凱旋《がいせん》していなかったようだ。  無口で活字中毒の中年さんで、垂《た》れた前髪《まえがみ》と後発に恵《めぐ》まれない頭頂部が哀愁《あいしゅう》を誘《さそ》う。今は鞭打《むちう》ちで入院し、頸椎《けいつい》カラーで固定している。  そんな中年が無言で、あんパンを差し出してくる。これは何を意味してるんだ?  山吹《やまぶき》色のお菓子《かし》代わりだとしたら、僕も大安売りの中古品に見られたものである。 「……君の……」 「はい?」  僕の耳が遠いような反応をしなくてはいけないので、日頃《ひごろ》から応援《おうえん》団員でも志してほしい。 「君の彼女に、あげてよ……」 「はい……?」  唇《くちびる》を封鎖《ふうさ》したまま腹話術で告げ、底が捲《めく》れかけているサンダルを鳴らしてレジへ行ってしまった。つい受領してしまったあんパンだけが取り残される。  いや、あの……あげてよって、この商品はまだレジを通してないみたいですけど。  押し売り? メーカーの回し者?  意図が見えなくて、単なるあんパンに及《およ》び腰《ごし》になる。  何ともあんパン少年期を回顧《かいこ》してしまうではないか。関係、微塵《みじん》もないけど。  あげないでおこう、と深い考察と地割れした心で簡潔に決めた。後で棚《たな》に返却《へんきゃく》しよう。 「にしても……」  人気あるのな、まーちゃんったら。  容姿は絶世で、性格も人前では大人しい方だからな。  ほら、あの後ろ姿をご覧《らん》。レジで支払《はら》いを済ませているだけなのに、まるでまーちゃんは、えーと……あらゆる賛辞の表現を躊躇《ためら》ってしまうほど、言語を超越《ちょうえつ》しているのだ。  つーか、色めき立たない方がおかしいか。などと彼女自慢《じまん》をしてみたり。  気分が高揚《こうよう》する。アドレナリンが分泌《ぶんぴつ》されて一分が六十秒として感じられる。そんな僕の気概《きがい》を無視してマイペースに仕事をこなすコピー機が小憎《こにく》らしい。  落ち着きをなくして店内を見回すと、酒の販売《はんばい》スペースの前で度会《わだらい》さんが右往左往《うおうさおう》していた。これで僕と同部屋の面子《めんつ》は、八時でもないのに全員集合していることが判明した。  手長猿《てながざる》みたいに両手をぶらつかせ、物欲しげに冷蔵庫内のアルミ缶《かん》を眺《なが》めている。  最近は急激な体調の悪化を自覚している所為《せい》で、酒に伸《の》びる手はお休みとなっている。  しかし度会さん、股引《ももひき》とどてらなんて奔放《ほんぽう》すぎる格好だ。別にこの人に限ったわけじゃないけど。どいつも、穴の空いたはんてんだったり、病院のスリッパのまま歩き回ったりと、勝手知りすぎな態度で店内を蹂躙《じゅうりん》している。こいつら、お召《め》し物と履《は》き物に対して非文明すぎる。 「……んー?」 「わたしは焼きそばの方が好き」  僕がカップ麺《めん》の購入《こうにゅう》に悩んでいると思ったのか、いつの問にか傍《かたわ》らにいたマユが横から助言してくれた。コピー機の正面はカップ麺の棚《たな》だったらしい。じゃあそうしよう、と銘柄《めいがら》を吟味《ぎんみ》ぜず手に取る。 「買い物終わった?」 「うん」と肯定《こうてい》するマユの手には、小さなドーナツの入った袋《ふくろ》が一つ。  コピー機から取り出したノートのページを捲《めく》りながら、マユに説明する。 「僕の方はもう少しかかるから、そうだ、美味《おい》しそうなやつを選んでくれない?」  取った商品を棚に返晶し、カップ麺の吟味をマユに依頼《いらい》する。 「いいよ」とマユが素直《すなお》に承諾《しょうだく》し、膝《ひざ》を屈《かが》めて、カップ麺の目線で目|利《ほ》きをする。  そちらはマユに任せ、コピー機に向き直る。一分ほど見つめ合っていたけど、無口な奴《やつ》に付き合いきれず、反対側のマユを鑑賞《かんしょう》することにした。マユは、屈んだり反復横飛びしたりと、熱心に僕の注文を満たそうと尽力《じんりょく》してくれている。実際のところ、マユはインスタント食品に慧眼《けいがん》と見識があるわけじゃない。仮ではないお嬢《じょう》様である。それでも、彼女が選んでくれた一品は、僕にとって最良の逸品《いっぴん》となるだろう、と料理|漫画《まんが》を見習って納得《なっとく》してみた。  作業を終えたコピー機に義務感で向き直り、開いた次のページを複写しようと、ノートを台の上に、「…………」  腕《うで》が、視界に捉《とら》えたもので金縛《かなしば》りに遭《あ》う。  ページの欄外《らんがい》に、僕の目は釘付《くぎづ》けになった。 「……これ」  その部分を、指で軽く押さえる。  ただの紙の感触《かんしょく》。  離《はな》すと、黒炭が少し指の腹を汚《よご》していた。 「……消し忘れか」 「えっ?」  振り向くマユに、「何でもないよ」と答えて。  うぃーん、と。 [#改丁] 四章『他人であるが故に』 [#ここから3字下げ] おじさんは、サンタさんだよって微笑んだ。 学校から一人で帰ってる最中に、公園にいたおじさんがそう話しかけてきた。 街では有名な人だから、わたしも顔と名前を知ってた。 確か、きょういくなんとかという役職の人だった。 線の細い人で、賢そう。 けど赤くないし、髭も少ない。 どう見てもサンタさんじゃなかった。 わたしが訝しむと、おじさんは破顔一笑する。 嘘だけどって、簡単に認めて。 それから頭を優しく撫でてくるのを、わたしは大人しく受け入れた。 [#改ページ] 『透《ヒおる》はあれッスか、蜜蜂《みつぱcち》ハッチッスか』 『昆虫扱《こんちゅうあつか》いされたのは久しぶりだよ……』  初めて長瀬《ながせ》と休日に出会った日、僕らはそんな会話をした。正確を期するなら出会った、ではなく時間を指定して約束したわけだから鉢合《はちあ》わせることは必然で、必要だった。  この待ち合わせをデート、というのは難儀《なんぎ》だった。僕らの行った先はバッティングセンター『アシカの番』で、どちらかというとデートしていたのは金属バットと硬球《こうきゅう》だった。  ゴルフの打ちっぱなしとの二択《にたく》で、長瀬はフリーバッティングを選択した。クラブをどちらも所有していないから、必定の決定ではあった。  長瀬は時速百キロの速球に立ち向かい、空間を切ると書けばバトル漫画《まんが》の能力みたいで形がつくけど、早い話が空振《からぶ》りの連続だった。もっとも、稀《まれ》にチップした場合は手が痺《しび》れて飛び跳《は》ねていたから、打てなかったのは不幸中の幸いなのかも、などと言ったら後日、殴《なぐ》られた。  僕は後ろから長瀬の勇姿を観戦し、左|利《き》きであることを知ったりしていた。 『つーか、なんでバッティングしてるッスか!』  三十球、計十打席連続|三振《さんしん》の記録を樹立した長瀬は憤懣《ふんまん》やるかたないという言葉の例として辞書に載《の》りそうだった。僕の隣《となり》に腰《こし》かけ、肩《かた》で息をしながら睨《ね》め付けてくる。 『長瀬のは果たしてバッティングといっていいものやら』 『バット振っても行けるのは甲子園《こうしえん》ッス! 違《ちが》うッス違うッス! お洒落《しゃれ》な喫茶店《きっさてん》でレモンチーッス! その後は何か分かんないけどキンキラした物買うッス! ご飯は樋口一葉《ひぐちいちよう》使うぐらいの高級店で割り勘《かん》ッス! それがデートッス!』 『……要約するとだ、茶をしばいて金属製品買って鮫子《ぎようざ》の大食いに挑戦《ちょうせん》して失敗しろと』 『現実の枠《わく》を取り外せー!』  そっちが屈折した背伸《せの》びをしすぎてるだけだと思う。 『その後はそこらの原っぱで』『ななななななにをするだぁー!』 『まあ落ち着くのだ』  汗《あせ》が滴《したた》る良い長瀬の頭にタオルを被《かぶ》せる。『はやっ?』と長瀬が疑問系になる。  長瀬フルスイングに感心という名の憐《あわ》れみを覚えた店主が、タオルをそっと僕に渡《わた》してくれていたのだ。それで長瀬の、健康的な汗の滴る肌《はだ》を拭《ふ》く。 『あうう……』 『ほら、こっちに身体《からだ》やって』  頭部を抱《かか》え込むようにして胸元《むなもと》へ寄せ、全体的に磨《みが》く。長瀬の髪《かみ》は少し熱く、柔《やわ》らかい。 『はい、終わったよ』  僕は長瀬《ながせ》を離《はな》そうとする。でも、長瀬は僕の鳩尾《みぞおち》に頭突《ずつ》きを入れて反抗《はんこう》してきた。 『何してますかコラ』 『も、もうちょっと!』 『え、また三振《さんしん》してくるの?」 『足がポッキーだから!』 『お菓子《かし》の家の住人だったのか。しかも虚弱《きょじゃく》そう』 『違《ちが》う、そうつったから、太股《ふともも》とか、腰《こし》もギックリな感じで、』 『ああ、このままでいろってことか。いいよ』 『はっきり言いすぎ……』  最後は尻《しり》すぼみで、首筋に薄《うす》い朱色《しゅいう》を化粧《けしょう》することで代弁していた。  周囲の客の視線が集《つど》い出す。バットも持たずに抱《だ》き合っている男女が鬱陶《うっとう》しいのだろう。長瀬はタオルで視界を塞《ふさ》がれて、それに気付かない。僕も、長瀬だけ見ることにした。  金属バットに翻弄《ほんろう》され、着方のずれが生じた衣服から覗《のぞ》ける、長瀬の肩《かた》と二の腕《うで》。  指先でなぞりたくなるけど、手は長瀬に使用しているので、我慢《がまん》した。 『長瀬って、肩が綺麗《きれい》だよね』 『そソすかっ?』 『うん、すごく好き』 『あきょけけけけっ』 『…他《ほか》へ行こうか』  次は長瀬の要求に従い、近場の喫茶店《きっさてん》へ入った。  喫茶店といっても軽食の方が専門に寄っていて、僕らが注文した品もレモンの入る余地もない焼きうどんだった。長瀬は『うどんでロマンは得られないッス、カロリーだけッス』と愚痴《ぐち》りながら麺《めん》を啜《すす》る。運動して腹が空いたのだろう、見事な食べっぷりだった。後で言ったら殴《なぐ》られたけど。  お代わりした水も飲み干し、長瀬はようやく重力を取り戻《もど》したように落ち着く。酔《よ》ったような赤ら顔も肌色《はだいろ》を職場復帰させ、素面《すめん》の長瀬になる。そこで、僕は少しだけ真面目《まじめ》に話した。 『あーっとさ、ごめん』 『急にどうしたッスか?』 『いや、デートとして成立してない気がするから』  長瀬は目を丸くし、その後は曖昧《あいまい》に笑って『まあそうッスねー』と頷《うなず》く。 『デートに、長瀬の求めるものが全然なくてさ。もうちょっと行き先とか考えとけば良かったなって』  何しろ、昨日の午後十一時にメールで打ち合わせして、十二時間後に会っているのだから。  長瀬はグラスを振《ふ》り、氷の音を鳴らしながら、『そうッスねえ』と言って、 『お洒落《しゃれ》とは無縁《むえん》ッスね。でも焼きうどんは美味《おい》しいし、バット振《ふ》るのも楽しかったから、これで十分満足してる』  長瀬《ながせ》は満ち足りた笑顔《えがお》で肯定《こうてい》する。素振《すぶ》りが娯楽《ごらく》になるなら、ソフトボール部への入部を勧《すす》めようかとも一瞬《いっしゅん》、悩《なや》んだ。けど場の空気を読んで口外には進出させなかった。 『そか。じゃあ、いいんかな』『ッス』  さっきまで愚痴《ぐち》ってた気がしたけど、今は本当に楽しそうだ。不思議な子だな。 『ま、今回は良いッスけど、次回はギンギラギンな感じでよろしくッス』 『……さりげなく善処《ぜんしょ》するよ』  長瀬が水のお代わりを貰《もら》い、暫《しばら》くは雑談に興じた。  その途中《とちゅう》、こんな話題になった。 『透《とおる》は地元の大学に行くッスか?』  長瀬は、行くことを前提にした質問をしてきた。なので、僕は返答に淀《よど》みがあった。 『就職しようと思うんだ、高校出たら』 『あ、そうなんだ』 『僕はさ、叔父《おじ》の家で世話になってるから。そこまでは、ちよっとね』  叔父、という言葉とお茶|濁《にご》しで、長瀬は何か察したらしい。 『透の家族の話は、ちょっと重かったりする?』  長瀬は、僕が『事件』に巻き込まれた人間であることを知らなかった。 『うん、全員|亡《な》くなってる』  僕は、その理由と原因を語らなかった。  もしかしたら、ずっと隠《かく》し通せていたら。  彼女が長瀬透でなかったら。  或《ある》いは、まだ。  長瀬は「そうッスか』と感情のない反応をして、水をちびりと啜《すす》る。 『んーと、透は家族の話をして傷つく性格ッスか?」 『そんな奴《やつ》に見える?」  長瀬はそれの当否《とうひ》を答えず、微笑《ほほえ》む。 『透のことは知りたいけど、嫌《いや》なら絶対に話さないし尋《たず》ねないから、ちょっと確認《かくにん》』  ……ちょっと新鮮《しんせん》。  人に気を遣《つか》われるっていうのは存外、悪くない気分なんだなって。 『大丈夫《だいじょうぶ》だよ。僕は人より切れやすい神経と、その後の繋《つな》がりやすさが自慢《じまん》なんだ』 『凄《すご》いッス、アメーバみたいッスね』  で、その後に蜜蜂扱《みつばちあつか》いされてから、互《たが》いの家族話に話題は流れていった。 『久しぶりって、昔はなんだったッスか?』 『前は、妹に働き蟻《あり》と呼ばれてた』 『ほほー……』  長瀬《ながせ》の目が飛ぶ.良からぬことを想像しているのが透《す》けて見えた。 『じゃあ私も、透を専属の働き蟻に指名ッス!』 『じゃあ長瀬は鈴虫《すずむし》ということで』 『いいッスか? 鈴虫って産卵する前に雌《めす》が雄《おす》を食べちゃうッスよ』 『ふうん、ということはあれだね、子供は作るわけだね』 『セクハラ禁止ッス!』  すれてない長瀬の慌《あわ》てふためく姿は、心を刺激《しげき》し、同時に柔《やわ》らかくもする。 『ところで、私も妹がいるッスよ』  長瀬|一樹《いつき》については、その時初めて耳にした。 『今、小三だから七つぐらい年の差あるッスけどね。最近は生意気|盛《ざか》りでよく骨折するッスよ』 『……体罰《たいばつ》?』 『あいつ、空手とかやってるッスから。今日もソフトボールの試合があるって言ってたッスよ』  なるほど、良いことを聞いた。 『じゃあその子の試合でも見に行こうか』 『んー、それでもいいッスけど……いいッスよ』 『気乗りしないなら他《ほか》のとこ行こうか』 『そーいうわけじゃなくて……一樹に唾《つば》つけるのは禁止で』  いらぬ心配をされていた。物悲しい。 『時間は、もう始まってたりする?』 『一時からって言ってたし、大丈夫《だいじょうぶ》ッスよ』  もう少し、きっちゃてんでだべることにした。 『私もちょっと複雑な家庭ッスよ』 『そうなんだ』 『私にはあんまり関係ないッスけどね。お父さんと祖父《じい》ちゃんの問題らしいッスから』 『ほお』 『その所為《せい》か、祖父ちゃん祖母《ばあ》ちゃんに対する見聞知識がなーんにもないッスよ。お年玉を幾《いく》らくれそうな人かも分かんないッスねぇ』 『ふぅん』  長瀬が唇《くちびる》を尖《とが》らせる。『気のない返事ッスね、プライベートなこと明かしてるのに』 『コメントが難しい話だから』  僕が立ち入るべきじゃない、とかではなく、単純に内容が思いつかない。  長瀬《ながせ》は逡巡《しゅんじゅん》し、『ま、それもそうッスけど』と締《し》めくくった。  それから三十分ぐらいして、店を出てから、 『それで、いつになったら私を名前で呼んでくれるの?』 『日本語学ぶ学ぶ、もう少し大変』 『あはは』、と長瀬の小さな笑いを頂戴《ちょうだい》した。 『面白《おもしろ》い嘘《うそ》つきッスよねえ、透《とのる》は。名字がよく似合ってるッスよ』 『ああ、それは僕も気に入ってる』  本当の名字ではないけど。  その後、僕たちはその場の思いつき通りに、長瀬|一樹《いつき》の出ている試合をチケット抜《ぬ》きで無料観戦した。そして試合終了後に長瀬一樹と出会い、正拳突きを頂戴し、何だか理解し辛いけど懐《なつ》かれ、長瀬が盛大に嫉妬《しっと》して、まあ、楽しかった。  愚痴《ぐち》が多かったり、動作が大げさだったり、楽しかったりした理由。  浮かれていたんだなぁって長瀬と別れてから得心した。  二人して、好いた惚《ほ》れたに浮かれっぱなしだったわけだ。  探検ごっこに興じた翌日。  探偵ごっこに臨《のぞ》む今日。  僕は一樹経由でノートを長瀬に返す為《ため》に出かけたら、いつの間にか屋上のベンチに座り込んでいた。このベンチが曲者《くせもの》で、背もたれの下、丁度|尻《しり》の触《ふ》れる部分が滑《なめ》らかにへこみ、座り心地が良いのである。全体重を預けて、ベンチに埋《う》もれてしまうというか、まあベンチへの御託《ごたく》で逃避《とうひ》がちになるのはここらで打ち切ることにした。時間を湯水のように使えるほど余裕《よゆう》はない。午後は外出する予定だし。  昼前の屋上は、暖冬という二文字が似つかわしい暖かさが蔓延《まんえん》していた。申し訳程度に吹《ふ》く風も、通り抜《ぬ》ける際に身体《からだ》が軽く震《ふる》う程度で、尖《とが》った部分がない。不良少年が性|転換《てんかん》して深窓の令嬢《れいじょう》になったようなものだ。今日という日に限って。  その為に僕は、冷温を口実にこの場から去りゆくことが許されなくなっていた。  ベンチの隣《となり》には、僕の病室には来ないと約束した長瀬。今日は土曜日で、久方ぶりに私服姿を拝見している。以前も同一の感想を持ったけど、没《ぼつ》個性な格好だ。常に脇《わき》の下から草履《ぞうり》がはみ出ているとか、もっとキャラ立てを模索《もさく》していくべきだと、長瀬の個性を勝手に憂《うれ》いてみた。 「見つめられると挙動が難しくなるッスよぉ」  照れてる長瀬。まあ、僕の心の中は何も伝えまい。  さて、何故《なぜ》長瀬はここにいるのか。彼女は僕ほど嘘もつかず、律儀《りちぎ》な部分を持ち合わせているので公約通りに病室へは訪《おとず》れなかった。けど、僕が一樹《いつき》の病室に行って、見舞《みまい》客の長瀬《ながせ》と遭遇《そうぐう》してしまったわけで、屁理屈《ヘりくつ》じみてはいるけど何も問題はあげられない。長瀬のにこやかな『おはようッス』には顔が引きつった。故意《こい》か、偶然《ぐうぜん》か。  で、長瀬姉妹を両手に彼岸花《ひがんばな》みたいな状態で屋上へおデートに来ていた。  一樹《いつき》は今、洗濯《せんたく》物を取り込んでいる『せんせー』にじゃれついている。例の看護師さんだ。『今日の下着は何色かなー?』とお早《はよ》う御座《ござ》いますの代わりにセクハラする人聞(聞かれたのは僕である)を先生呼ばわりとは、一樹も人を見る目がない。  だから、僕にも懐《なつ》いてるのかな。 「なんか、ほのぼのッスね」  陽光に目を細め.前髪《まえがみ》を押さえて風から守り、長瀬が呟《つぶや》く。はしゃぐ娘を木陰《こかげ》から眺《なが》める母親のようであり、縁側《えんがわ》で置物の一種と化して孫《まご》を慈《いつく》しむ老婆《ろうば》のようでもある。もし言うなら、何となく前者の方が友好的な態度を取ってくれる気がする。 「そうだねぇ」  僕も縁側の爺《じい》(付録品は煎餅《せんべい》か膝上《ひざうえ》の猫《ねに》に成りきって返事をした。 「平和ッスねぇ」  長瀬も釣《つ》られて老化現象が発生している。 「団樂《だんらん》だねぇ」 「別にそこまで楽しいわけじゃないッスけどねぇ」  このまま昔話の登場人物に抜擢《ばってき》されそうな僕らだった。  それはいけないと悟《さと》ったのか、長瀬が若返りの水を浴びた、もしくは若作りになった。 「でも一樹はあれッスね、ほんと、透《とおる》が好きっていうの伝わってくる」  長瀬が、一樹に視点を固定したまま言う。僕としては「そうかねぇ?」と返す以外ない。まだ僕は若化現象に見舞われていないようだ。 「あいつ、隣人《りんじん》がいなくなってから、何だか怖《こわ》がりが酷《ひど》くなってるの。今じゃ、病室からほとんど出たがらなくなっちゃって」 「あー、思いの外、重症《じゅうしょう》なんだな」 「でも、透がいると外に出て跳《は》ね回りたくなるんだから、大したものッスよ」 「いやそんな、あからさまに褒《ほ》められると図に乗っちゃうなぁ」 「透じゃなくて一樹が偉《えら》いって話ッス」  お澄《す》ましさんな物腰《ものごし》で長瀬に切り捨てられた。不可解な問答に理解を追随《ついずい》させるべく、精神を六十|歳《さい》ほど巻き戻《もど》す。けど、背筋は猫背《ねこぜ》から改善されない。 「好きな人といれば恐怖《きょうふ》も軽減されるなんて、我が妹ながら乙女《おとめ》すぎるッス」 「僕はマユといれば悩《なや》みまで健忘症《けんぼうしょう》するけどねっ」 「なに張り合ってるッスか……」と馬鹿《ばか》を見る憐《あわ》れんだ目つきで呆《あき》れられた。  どうも、男性の立場では尊敬の対象に成り得ないようだ。 「今日、まーちゃんは?」 「夜|更《ふ》かしの疲《つか》れを癒《いや》す為《ため》、静養されておられる」 「そうなのですか」と、誰《だれ》を対象に受け答えしているか曖昧《あいまい》な返事。  僕と正反対、扉《とびら》の方向へ流し目を送り、それから目の玉だけ横飛びさせる。 「少し聞いていい?」  長瀬《ながせ》の様子が変化し、語尾から癖《くせ》が一時|撤去《てっきょ》される。 「内容による」  それもそうッスね、と長瀬は一度笑うフリをして、 「まーちゃんのことだけど」「内緒《ないしょ》」  言語道断と切り捨て返した。長瀬は、怒号《どこう》の代返に眉根《まゆね》を寄せて嘆息《たんそく》。 「八年前に何があったか、事の顛末《てんまつ》だけでも教えてほしいの」 「だから、内緒」  真摯《しんし》な瞳《ひとみ》で要求されても、困惑《こんわく》と拒絶《きょぜつ》しか生まないわけで。  長瀬に、それを学ぶ理由はあっても権利と義務はなく、僕には話す必然がない。語られない方が自然なのだ。  けど、長瀬は引き下がらない。僕の好きになる女性は、ワガママと紙一重に頑固《がんこ》を貫《つらぬ》く性格の持ち主である割合が多い。勿論《もちろん》、マユは危険と薄紙《うすがみ》一|枚《まい》のワガママで、別格だ。 「じゃあ……菅原《すがわら》君は? 菅原君が、その、この街の殺人犯だったってみんな知ってるけど、あれはどういうこと?」 「どうもこうも、僕は生徒会長と友達じゃないし共犯でもないんだ。如何様《いかよう》なコメントを寄贈《きぞう》しろと?」 「菅原君はそんなことするような男の子じゃなかった。誘拐《ゆうかい》されて、そこで、何かがあったに決まってるから。だから……教えてよ」  項垂《うなだ》れ、懇願《こんがん》される。今にも一転して泣き喚《わめ》き、僕に理不尽《りふじん》かつ激昂《げきこう》な罵《ののし》りを突《つ》き刺《さ》してきそうな、点火《てんか》寸前の雰囲気《ふんいき》も散見される。  こういった感情の高ぶりへの対処は、慣習となっていた。  まーちゃんのみーくんだから、ね。 「長瀬」と、彼女の名字を強めに口頭する。  長瀬の顎《あご》が上昇《じょうしょう》し、額に垂れていた前髪《まえがみ》が左右に分かれる。 「勘違《かんちが》いしてるようだけど、僕は教えられないんじゃくて、教《おしえ》えたくないんだ。意地悪してるわけじゃない、身近な人に細部まで詳細《しょうさい》を把握《はあく》されるのが、堪《たま》らないだけなんだ」  忘れたいわけでもないけど。その言葉は付け足さず、心の何処《どこ》かへ送信した。 「昔、長瀬の言ってくれたことが新鮮《しんせん》で、嬉《うれ》しかった。僕の嫌《いや》がることは話さないし、尋《たず》ねないって。それを僕も実践《じっせん》してるつもりだよ、事件のことは僕だけじゃなくて、マユも嫌《いや》がるだろうから」覚えてさえいれば。  良質の思い出を利用して、長瀬《ながせ》の言論を封《ふう》じる。  当然、長瀬は釣《つ》り目で、僕に的確な評価を下した。 「卑怯者《ひきょうもの》」 「自覚してる」  だから、長瀬にもこんな接し方をしていられる。 「卑怯者、卑怯者、卑怯者、卑怯者、卑怯者……」  繰《く》り返し、罵倒《ばとう》される。  その言葉以外は不適格だ、と主張も兼《か》ねて。  僕は左|腕《うで》の包帯をさすりながら、聞き漏《も》らしのないよう、耳を傾《かたむ》ける。 「馬鹿《ばか》にしてるとかそういうことじゃなくて、透《とおる》は間違《まちが》ってるって言ってるの、分かる?」 「正否はさておき、長瀬の主張は分かってるつもりだけど」 「じゃあ、なんでそんなに平気そうにしてるの」  長瀬の、僕を別の動物に仕分けするような指摘《してき》。  僕はそれに返すものを、思い出から発掘《はっくつ》した。 「切れやすくて、繋《つな》がりやすい神経だから。痛みを受け流すのは、得意なんだ」  そう言うと、長瀬は記憶《きおく》との合致《がっち》によって舌の動きを静止した。  過去はまだ、長瀬の中で蓄《たくわ》えられているわけだ。  それも今となっては、気まずさの温床《おんしょう》に過ぎない。  長瀬の口元や、目の伏《ふ》せ具合から読み取れる気の陰《かげ》り。  僕らの問で何かが途切《とぎ》れ、顔を逸《そ》らし合う。  微風《びふう》の運ぶ、寒冷の痛々しさが増した。 「透」「僕は今、透じゃなくてみーくんだよ」  それは、明確な拒絶《きょぜつ》を卑劣《ひれつ》に、遠回しに伝えるものだった。  長瀬の表情に差し込む陰を視界の端《はし》で見届けながら、見向きもしない。  一樹と看護師さんは何処《どこ》から調達したのか、シャボン玉セットで気泡《きほう》を製造し、空気に無料配布していた。緩《ゆる》い空気の流動を動力源に、透明《とうめい》な球体が数秒の生涯《しょうがい》を謳歌《おうか》する。  そのシャボン玉ぐらい軽く、長瀬がベンチから離脱《りだつ》する。「帰る」と最短の文字数で、帰宅の意志を示して。  長瀬と遊んで別れる際、その言葉の語尾にはいつも『ッス』があった。  今は、何も続かない。 「これだけは言っておく」と、僕は遺言《ゆいごん》のように語りかける。 「なに?」と長瀬が冷淡《れいたん》な調子で振《ふ》り向く。 「長瀬《ながせ》は、僕らの間に非常に特殊《とくしゅ》な出来事があったと考えている」 「そう……ッスね」 「けど、本当は異常に特殊な事態が発生したんだよ」  僕と、彼女と、彼に。  偽《いつわ》りと、偽りと、偽りを与《あた》えた。 「……そういう言葉遊び、嫌《きら》いだから」  長瀬の右手が握《にぎ》り拳《こぶし》になって、頭にでも飛んでくるかと予測した。  けど爪《つめ》は手の平に食らいついたまま離《はな》れず、長瀬は射程《しゃてい》内から外れていった。  僕と長瀬が会う度《たび》に得られるものは、好まざる、望まざる、透《す》き通らない感情の煮凝《にご》りだけだった。  長瀬は、戯《たわむ》れる妹に近寄り、二、三言を告げてから屋上の出入り口へ一直線。  その長瀬|透《とおる》の姿が消える直前、言い忘れた言葉を、今更《いまさら》のように思い出した。  ながせさんに、伝えないと、いけないことを。  と、長瀬が屋上から出ていったことを引き金に、看護師さんは放置していた仕事を引き寄せ、一樹《いつき》は溶液《ようえき》が入った筒《つつ》を受け取ってから、僕に駆《か》け寄ってくる。その最中も緑のストローを吹《ふ》き、軌跡《きせき》としてシャボン玉を舞《ま》わせた。  ベンチに座っている僕より、膝前《ひざまえ》に接近した一樹の方が長身だ。「ひゅへへー」とストローをくわえたまま、新言語で御挨拶《ごあいさつ》された。現在は片手しか活動出来ず、その手に筒を握《にぎ》っている為《ため》、ストローの扱《あつか》いに困窮《こんきゅう》しているらしい。僕が筒係を受け持ち、ようやく一樹が日本語を復帰させる。 「ねーちゃんどしたー?」 「僕と同じ空気を吸うのが嫌《いや》だってさ」  多少の脚色《きゃくしょく》を交えて報告する。それに対する一樹の反応は、シャボン玉だった。  溶液にストローの先端《せんたん》を浸《ひた》し、僕の頭上に吹く。  シャボン玉は軽快に生産され、ベンチ周辺に日常的な幻想《げんそう》を演出した。 「いやされた?」  一樹が柔和《にゅうわ》な優《やさ》しさの感想を求めてくる。 「慰《なぐさ》めてくれてるわけですか」「なのです」  僕が以前そうしたように、一樹に髪《かみ》を撫《な》でられた。ストローから垂《た》れる液体が頭皮を刺激《しげき》する。それでも、僕に与《あた》えられるものは無下《むげ》に振《ふ》り解けなかった。  その最中に丁度、看護師さんが洗濯《せんたく》物を大量に籠《かご》に詰《つ》め、屋上から去る時に目が合う。  意地の悪い、年上の笑い方をする。『モテますなー』と唇《くちびる》の動きだけで椰楡《やゆ》してきた。僕らが屋上に訪《おとず》れた当初は、事件調査という言語道断を周囲に強制する言い分で院内を競歩気味な警察を邪魔者扱《じゃまものあつか》いし、機嫌《きげん》を損ねていたが、それも回復した模様だ。  僕は手首に頼《たよ》って、追い払《はら》う動作で返答する。最後の含《ふく》み笑いに、肌《はだ》がざわついた。 「あ、せんせー、お達者でー」  何の影響《えいきょう》なのか、時代がかった挨拶《あいさつ》をしながら、看護師さんに一樹《いつき》の手が振《ふ》られる。  それに伴《ともな》い、頭|撫《な》では体温の上昇というむず痒《がゆ》い余韻《よいん》を残して終わった。 「で、一樹はシャボン玉の用具を常備してる不思議ちゃんですか?」 「せんせーから貰《もら》ったの。せんせーのポケットは色んなものを出し入れ出来るんだぞー」  そりゃすげぇ、一般的に丈夫《じょうぶ》な三次元ポケットだな。  二人きりになったからか、一樹が膝上《ひざうえ》へ飛び乗ってきた。僕を見上げて、上等な笑顔と「ぬふふー」、信者の甘め裁定でユーモラス、標準の評価で不気味な笑いをあげる。 「せんせーがね、お返しにとーるに今日のパンツの色を教えるってー」 「……あの人を師として尊《たっと》ばない方が、立派な大人になれるよ」  全く、困ったものだ。でも一応聞く。耳の穴かっぽじって、一応聞き漏《も》らさない姿勢を取る。 「ではー、えーと、ぎゅるぎゅる……とらんすぺあれんとれっどおきさいどだって」 「……………………………取り敢《あ》えず、赤……………」 「お、想像してるー。えろじじー」  椰楡《やゆ》する一樹に虹玉《にじだま》を吹《ふ》きかけられた。別に我には返らない、心中の赤色を失っただけだ。 「別に興味ないさ」  前髪《まえがみ》をいじりながら、体裁を整えてみる。その拍子《ひょうし》に、小指に引っかかったシャボン玉が二つ破裂《はれつ》した。僕と長瀬の関係ぐらい容易《たや》く、脆《もろ》く。 「ねーと」以下略。「今日は、あたしとランチしない?」 「んー」マユは、日頃《ひごろ》の睡眠《すいみん》時間から逆算すると、昼過ぎまで夢遊びをしてるか。「そだね」 「でー、ご飯食べたらあたしと、んと、なんかしてあそぼー」  一樹の声の高低から、食事よりその提案に比重が置かれているのが分かる。  しかし、本命の方は、丁重に断りを入れた。 「せっかくのお誘《さそ》いだけど、今日は昼過ぎから、墓《はか》参りに行く予定」  その説明を耳にしながら、僕を見上げる一樹の童顔は、光を感受する器官を疑問系に垂《た》れ下げる。 「お墓? だれの?」 「僕の母親の命日なんだ」  年四回春夏秋冬取り揃《そろ》えて、山に面した霊園《れいえん》に赴《おもむ》いている。  母の死んだ日が冬。父と妹の母親が春に、兄が夏、妹が秋。  この中で最古参が母で、最も思い出を積み合わなかったのも母だった。  じゃあ、母だけが仲間外れかという苛《いじ》めっ子の指摘《してき》は、早合点《はやがてん》というものだ。  本当の孤立《こりつ》者は、妹。彼女だけ、未《いま》だに夜|更《ふ》かしして墓に入らず、死体は行方《ゆくえ》知れずだ。 「とーるのおかーさん、びじんさんだった?」  一樹《いつき》があどけなく尋《たず》ねてくる。まるで、マユのように。 「顔は、あんまり覚えてないな。背の高い人だったけど」  親父より上背で勝《まさ》っていたはずだ、気味悪いくらい長足で、行動や性格、喋《しゃべ》り方が一貫してアイロンがけされていた。ハキハキテキパキシャキシャキしていた、とそこまで母を憶《おぼ》えているのに、顔立ちだけは、過去の沼から浮かび上がらない。没後《ぼつご》も、写真で幾度《いくど》か姿を確認《かくにん》しているのに、定着しない。 「シャボン玉みたいな人だな……」  実体を見ることが出来ても、掴《つか》むことは困難《こんなん》。僕にとっては、そんな位置づけか。  僕の名付け親であるという、わだかまりもあるし。 「じゃー、きれいじゃないの?」  僕の独白に、一樹が割り込む。実例として、シャボンを生んで。 「そうかも。でも一樹はシャボン玉みたいな美人にならないようにね」  忠告の意味を理解しているのか定かじゃないけど、一樹は「分かったー」と教えを受諾《じゅだく》した。 「で、一樹ちゃんや」 「なにかねとーるじじー」  無邪気《むじゃき》と無垢《むく》の取り合わせにジジイ呼ばわりされ、顔に青線が入りそうな高校生だった。  気を取り直して。 「ちょっと話したいことがあるんだ」  虚偽《きよぎ》を削除《さもよ》すれば、詰問《おつもん》したいことがある、と表現するのが正確か。 「なんだなんだー?」 「ああ、僕の病室に行ってからね」 「こ、こくはくですか?」 「僕はそこまで法律が嫌《きら》いじゃないよ」  溶液《ようえき》をストローでかき混ぜて、きゃーきゃーと悶《もだ》える一樹には僕の言葉が届いていない。  そういう、単純な部分を持ち合わせているところは、長瀬《ながせ》の妹であると実感する。  かつて、僕と歩く公害バカップルの片棒《かたぼう》を担《かつ》いでいた頃《ころ》の、長瀬。  その『かつて』が切なさと苦味の結晶《けっしょう》になると、何を以《もっ》て予想出来たというのか。 「とーるは彼女さんがいるから、これってせいしゅんのふたまた? きゃー、どろぼうねこよばわりされちゃうー、きゃ」「止まれ」一樹の停止ボタンを押した。「ううっ」……全く。  今の長瀬は、僕が近しかった頃より幾分《いくぶん》、複雑になっている。  それは僕と長瀬の距離《きょり》感の所為《せい》か、もしくは全く別の要素が引き起こしているのか。  僕には、区別がつかなかった。  出来るのは、区切りを入れることだけか。  病室には衰弱《すいじゃく》した度会《わたらい》さんと、テレビと睨《にら》めっこして僕という生物をなかったことにしている高校生。中年さんは早朝から理想の看護師を求めて旅に出た。  僕の寝床まで、温柔《おんじゅう》な少女を合意の上で拉致《らち》する。一樹《いつき》は僕の前方まで駆《か》け出し、暫《しばら》くすると帰巣《きそう》するヨーヨーみたいな乙女《おとめ》だった。  暴が特盛りの一樹をベッドに腰《こし》かけさせて、僕も隣接《りんせつ》して座る。そうしたら一樹は一転がりし、僕の膝《ひざ》を椅子《いす》にしてきた。屋上で気に入ったのだろうか。 「で、でー? あたしのばすとさいずとか聞いちゃう?」  高校生が無視しきれずに僕らを注視してきた。布団《ふとん》の奥から度会《わたらい》さんの血走った目も濁《にご》り光っている。何だか、人としてされてはならない誤解の呼び水となった気がする。 「ちなみに聞いたらねーちゃんに言いつけます」 「やめてくれ、頭をかち割られる」  大体、一樹はまだAどころか平仮名の『さ』あたりの位だろ。測ったこともないくせに。 「じゃー、深いお付き合いのために二人で何を語るの?」  いつそんな条約を結ぶ場を設けましたか。最近の出来事は、血の気の盛衰《せいすい》に影響《えいきょう》しすぎる。 「残念の極《きわ》みなんだけ、今の君と仲を防空壕《ぼうくうごう》ぐらい深めるには障害《しょうがい》が多すぎるんだ」 「国家のいんぼー?」  陰謀《いんぼう》かはともかく、真にその通り。 「そういう込み入った話は五年後にお互《たが》いを引く手がなかった場合に執《と》り行おう」 「えー、でもお金があれば年の差なんて気になんないって、せんせーが言ってたよ」 「年の差は問題なくても、基本の数字に支障があるのだ」  六十二|歳《さい》と七十歳なら『お盛《さか》んですね』で流されるが、十八歳と十歳では『お巡《まわ》りさん』だ。  僕の日本国憲法に基づいた冷静な否定に、僅《わずか》かに機嫌《きげん》をひん曲げ、サイドテーブルに佇《たたず》んでいるシャボン玉セットに手が伸《の》びる一樹。 「お話ってなによー?」  せっつかれた。どうにも、本題に入る前に遊びすぎる嫌《きら》いがある。自省しよう、と上《うわ》っ面《つら》に誓《ちか》った。 「名和三秋《なわみつあき》のことを聞きたいんだ」  その名前が出てくるとは思いもよらなかったのか、一樹の瞼《まぶた》けが活性化し、他《ほか》の器官は取り残される。 「よばいじゃないの?」 「あの看護師さんから教わった単語は、日本人に使っちゃ駄目《だめ》だよ」  この子の健全な将来を育《はぐく》む為《ため》に、僕も一役買っておいた。一樹は実直にそれを受け止めるなどあるわけもなく、「ふん」と拗《す》ねを安直に表し、屋内をシャボン玉で飾《かざ》り出す。こらこら。 「あのな、僕は彼女と十八|歳《さい》なお付き合いをしてるんだぞ。他《ほか》の人に色目|遣《つか》えないだろ?」  十歳児に何を説明してるんだ、と客観的な見方をすると背筋が寒くなるので主観に拘《こだわ》る。 「ぷー」  吹《ふ》く吹く、飛ぶ飛ぶ気泡《きほう》の群れ。  心がねじけて我意《がい》をはる際の顔の作りは、姉と酷《こく》似していることを発見する。  ただ、気分の捻《ひね》りを矯正《きょうせい》する方法は、一年前の姉ちゃんに使えても妹には行使出来ない。  誤解が募《つの》る行為《こうい》は避《さ》けたい。  池田|兄妹《きょうだい》では妹の方をやっている杏子《あんず》ちゃんの方が干支《えと》は二匹分も遅れているのに、遥《はる》かに大人びていた。精神の成長する速度も、植物と同様に環境《かんきょう》で決定されるわけだ。言動に、芯《しん》の通り方が異なる。 「一樹《いつき》 名和三秋《なわみつあき》がどうしていなくなったか知ってるんじゃないか?」  相手の状態に構わず、話を振《ふ》ってみた。  一樹はストローを口に携《たずさ》えたまま、唇《くちびる》の端《はし》に指を当てて首を傾《かたむ》け、演劇の如《ごと》く不理解を表す。  釣果《ちょうか》は、悪くないみたいだ。 「昨日話した時、一樹は犯人を捕《つか》まえてばんざいと言った。その時、僕はまだ、名和三秋の所在を不明にした可能性のある他人、つまり犯人の存在を指摘《してき》していないのに。僕の思い違《ちが》いならいいんだけど、その『犯人』について何か思い当たる節があるんじゃないかなって」  一樹は無言で、筒《つつ》とストローを棚《たな》に預ける。シャボン玉一座は、同様に透明《とうめい》な窓と衝突《しょうとつ》し、集団で神隠《かく》しに遭《あ》った。詩人なら、僕の存在のようだ、などと吹聴《ふいちょう》しかねない光景だった。 「そんなこと、言ったかなー?」  一樹は取り乱しなんて無様な振る舞《ま》いはせず、朗《ほが》らかに、快活に笑い事として対応する。  この会話に、何処《どこ》までもそぐわない、優《やさ》しい音色で。 「いや、憶《おぼ》えてないなら構わないよ」 「そーお? なんならぎゅるぎゅるして頭出しするよー?」  悪意の欠片《かけら》さえ取り除かれた、長瀬《ながせ》一樹という人格。  慌《あわ》てず騒《さわ》がず転ばずに保ち続ければ、将来はさぞかし良質の人間になれるはずだ。  それはまだ、過去形じゃない。 「それより、一樹は、夜中にトイレ行く時は同室の人に同伴《どうはん》してもらってたんだろ?」 「怖《こわ》がりさんじゃないそー」  間延びに抗議《こうぎ》してきた。「まあまあ」となだめすかしつつ、次の質問に移る。 「名和三秋にもお世話になってた?」 「うん」 「規則正しい人だった?」 「うーん、まー」 「焼きそばパンとか買いに行かされた?」 「んにゃ?」  その首の傾《かたむ》きで、世代の差が身に染《し》みた。 「……よし、僕の話はこれでお終《しま》い。他《ほか》に何話そうか?」  その宣言と提案に、一樹《いつき》が浮上する。 「では、ねーちゃんのどこを好きになったか、とくとくと語りなさい」 「あーなんていうの、中身と外見の合致《がっち》と不一致的みたいな……」  などと、意味はあるけど積み重ならない会話に暫《しばら》く興じていたら、戸に無駄《むだ》な後押しで勢いをつけて開かせ、看護師さんが昼飯配給に訪《おとず》れた。  看護師さんの声が慣れ親しむのは、健康上よろしくない気もするけど、お馴染《なじ》みではあった。 「はいはーい飯よー、フォアグラになるまで諦《あきら》めるなー」  レストランのバイト学生と勘違《かんちが》いしているのか、両手の指先から二の腕《うで》まで活用し、トレイを四丁運んできた。僕の膝上《ひざうえ》の生き物を見るなり、優《やさ》しげに唇《くちびら》を緩《ゆる》める。 「式の日取りはいつかしら?」 「黙《だま》れトランスペアレントレッドオキサイド」  暗記してしまった。明日も明後日も明々後日も使いどころのない、脳内における三軍送り確定の知識である。  今日の献立《こんだて》は親子丼《おやこどん》と白|味噌《みそ》の玉葱汁《たまねぎじる》だった。この病院の食事はわりかし、味の体裁が守られている。入院前にイメージしていた、一口賞味した直後に調理人を呼びつけるほどの劣悪《れつあく》さはない。 「ありゃ、竹中《たけなか》さんは?」  中年さんの不在について、僕ら三人に所在の追及《ついきゅう》をする。  あなた方の尻《しり》を求めて長い旅に出ていますと語る勇者はいない。 「ま、いないなら知らん。一樹はここでこのお兄ちゃんに食べられちゃうの?」 「迅速《じんそく》にクビになれ」 「食べるの?」「食べない」「じゃーとり肉だけもらったげる」「そうじゃないって、あーもう」  僕だけ特別に玉子井となった。汁気を含《ふく》んだ玉葱の切り身が、鶏《とり》の代理を虚《むな》しく務《つと》めている。 「つか度会《わたらい》しゃん、なに死んでんの。おっきしなさい」  看護師さんが度会さんの第二の肌《はだ》である布団《ふとん》を無慈悲《むじひ》に剥《は》がす。  その中には、血色の悪い、カブト虫の幼虫みたいに身体《からだ》を縮《ちぢ》こまらせる老人がいた。  流石《さすが》にただならぬものがあると危険を察したのか、看護師さんが仕事の顔になる(出来たのか)。 「検査、昼から受けます?」 「いい、いい」と出来立てのゾンビぐらい頑張《がんば》って伏臥上体逸《ふくがじょうたいそ》らしの過程をこなす。  看護師さんはその様子をこめかみに指を当てて見守っていたが、患者《かんじゃ》の意志を尊重した。 「ご飯、食べられないなら他《ほか》の人にあげちゃって下さいよ」  残せとはあくまで勧《すす》めない看護師さんであった。  それにしても。  長瀬透《ながせとおる》に、長瀬|一樹《いつき》。  姉妹《しまい》ともども、虚偽《きょぎ》の申告は苦手らしい。  僕と同様に。 「うーむ、とり肉はほんのりシャボン玉のお昧。にがーっ」 「間違《まちが》えてストローを吸ったからだろ」  ただ違うのは僕が、常習犯ということだけだ。 「送ってかなくて大丈夫《だいじょうぶ》?」  昼飯を仲良く食べて 休みした後、僕は一樹にそう尋《たず》ねた(尋ねさせられた)。 「うん、家まで近いっすからー」  一樹ちゃんは頬《ほお》の色素まで演技に駆《か》り出し、ノリノリである。長瀬はこんなやり取りまで妹に報告していたのか、と流石《さすが》に厚顔無恥《むち》な僕でも頂けない気恥《きは》ずかしさだ。 「おわかれのちゅーは、今日はどっちからするっすかー?」  ちくしょう、一字一句間違ってねぇ。口から魂吐《たまは》いて逃亡《とうぼう》したい。 「手、離《はな》してくれないと帰れないっすー。でもまだ帰りたくもないっすー」  繋《つな》いでねぇ! 音速で立ち去れ! 「そっ、それとも、あれっすか、今夜は帰らせないってやつっすか。こっ、公園で、原っぱで」  溜めまで再現してんじゃねえ! この、この……、 「……勘弁《かんべん》してください」  小学四年生に平伏《へいふく》した。一樹は、「よしなに」と誤用しながらご満悦《まんえつ》だった。  僕が大和撫子《やまとなでしこ》に女装してたら辱《はずかし》めのあまり舌を噛《か》み切ってるぞ。 「冗談《じょうだん》はさておき、あの看護師さんに付き添《そ》ってもらったら?」  呼べば即座《そくざ》に壁《かべ》の染《し》みあたりから現れそうだし。 「昼間だからなんとかなるの、子供|扱《あつか》いすんなー」  憤慨《ふんがい》する一樹は、病室の扉《とびら》まで駆《か》ける。扉を開けて「またねー」と和やかに言い残し、走って廊下《ろうか》に消えていった。 「おい」  その途端《とたん》に、老《お》い先とは裏腹に野太い声がかかった。  布団《ふとん》から半身を這《は》いずり出し、蝸牛《かたつむり》の擬態《ぎたい》を行っている度会《わたらい》さんが、僕に突《つ》っかかってきた。 「さっきの話、なんじゃ」 「はい? いえ決して結婚|詐欺《さぎ》の予行演習をしていたわけでは」「あの子に犯人がどうたら聞いとったやろ」と、度会さんがくって、かかった。  一匹釣《いっぴきつ》ーれた。  語気と息を荒《あら》く、度会さんが尋問《じんもん》してくる。  うむ、体調がお戻《もど》りになられた。わざわざここで一樹《いつき》と話した甲斐《かい》があるというものだ。 「ちょっとした好奇心《こうきしん》に基づくたわむ」「ぐだぐだ言わんと答えりゃええわ」  本体が布団《ふとん》から射出された。  僕と密着する、黄色い歯垢《しこう》の目立つ老人。  高校生は売店にお出かけしている。僕ら、嫌《いや》な二人っきり。 「耳は遠くないんですね。僕らの話が聞こえたんですから」 「おお、まだ現役やわ。で、はよ言え」 「言う理由がないです。度会さんは何かご関係でも」「ある」  あっさりと言い切られた。 「名和三秋《なわみつあき》と長瀬一樹《ながせいつき》、どちらにですか?」 「……長瀬一樹に、ある」  威勢《いせい》に向かい風が吹《ふ》き、口をまごつかせる度会さん。 「どんな、ですか?」  僕の質問に、度会さんは言い渋《しぶ》る。老人|虐待《ぎゃくたい》だ、と反撃《はんげき》は来ない。 「言うつもりがないなら、僕、用事があるんで失礼します」 「わーったよ」  僕に急《せ》かされ突《つつ》かれようやく、爆発《ばくはつ》物の発言を晒《さら》した。 「あの子、長瀬一樹は俺の孫《まご》だ」  目の中で何かが爆《は》ぜた。  脳味噌《のうみそ》が刺激《しげき》に感化されて暴《あば》れ出す。  ……真正面から背後霊《はいごれい》に襲《おそ》いかかられるような、予期の及《およ》ばない展開だ。 「つまり長瀬の……名字は?」 「長瀬は母親の方の名字。結婚する頃《ころ》、息子《むすこ》は俺と喧嘩《けんか》してたから、同じ名字を名乗るのも嫌だっつって、嫁《よめ》さんの名字を使ったんだわ。だから違《ちが》うんだ」 「………………………………………」  長瀬の。一樹の。  血縁《けつえん》。孫、祖父。  つまり、それは所謂《いわゆる》……だから、  僕の放《ほう》った釣《つ》り糸《いと》とは、別の方法で引っかかったなぁ。 「そんなに惚《ほう》けるようなことか?」 「いえ……ということは度会《わたらい》さんは、味にうるさい大御所《おおごしょ》なんですね」 「はぁ?」  骨の主要成分が不足した老人には、軽い洒落《しゃれ》も癇《かん》に障《さわ》るらしい。 「でも、一樹《いつき》や長瀬《ながせ》は貴方《あなた》のことを全く気にかけてませんでしたね」  ことをのあたりで失言かと危惧《きぐ》したけど、中途半端《ちゅうとはんぱ》なことはせずに最後まで言い切った。  度会さんは、寂寥《せきりょう》に彩《いろど》られた受け答えをする。 「面と向かって自己紹介《しょうかい》したこともないからな、あいつらは俺のこと知らんよ」 「ああ……」そうか、長瀬が昔……「そうでしたね……」 「だが孫に無関心でいられる爺婆《じじばば》ってのは、なかなかいないもんだ」  度会さんの、深い感慨《かんがい》と年月の練り込まれたご意見。  マユの祖父母を、何となく連想してしまう。  そんな僕の感傷には引かれず、今にも僕の胸《むな》ぐらを締《し》め上げそうな度会さんが、唾《つば》を飛ばす勢いで詰問《きつもん》してくる。 「俺の孫を、厄介《やっかい》に巻き込むなよ」 「滅相《めっそう》もない。ただあの子と約束したんです。名和三秋《なわみつあき》を見つけると」 「見つけるって、お前警察の人間か?」 「いいえ、僕はただ、まかり間違《まちが》ってたら、貴方のことを義祖父《おじい》さんとお呼びする可能性のあった者です」  まだ、妹さんの方との可能性は過去形で括《くく》れないのですが。なんて、祖父の神経を逆撫《さかな》でするお茶目さんな僕は、今は職場である舌を放棄《ほうき》し、心中で言葉のバイキング中だ。 「ああそうだ、そうだ、そうだ、お前は透《とおる》と……」言葉尻《ことばじり》は、舌打ちだった。 「や、気まずい関係やらして頂いてます」  やらしい関係気まずく頂いてますと言いかけた。舌休めしていて僥倖《ぎょうこう》だった。  木々の如《ごと》く受け流されて毒気が抜《ぬ》けたのか、或《ある》いは僕の毒に侵《おか》されて魂《にましい》の奮《ふる》いを失ったか。  老人にあるまじき興奮《こうふん》を発憤《はっぷいん》しきり、度会さんは自身の住処《すみか》に引っ込む。 「孫のこと、何の交流がなくても大切なんですね」 「自分のガキが、親になる。その歳月《さいげつ》の感慨や、俺が初めて子を授《さず》かった時の回顧《かいこ》。そういった感傷的なもんが、後押しする。だから孫ってのは良いもんだと、大抵《たいてい》の爺《じじい》が思うんさ」  しんみりと、人情もの路線の語《かた》り部《べ》となる度会さん。  僕もついつい、聞き手に回る。隙《すき》を探しながら。 「だからあの、いなくなった女の子も災難《さいなん》たぁ思うが、両親の俯《うつむ》く姿の方が見てて辛《つら》いわ」  ……今のは。  空気に、不協和音な波風を挿入《そうにゅう》する為《ため》の、切っかけ。 「……女の子、ですか?」  僕はわざと区切りを入れ、疑問符をぶつける。  釣果《ちょうか》の確認《かくにん》の為に。  度会《わたらい》さんは萎《しぼ》んだように眼球周囲に皺《しわ》を寄せ、睨《ね》め付《つ》けるような視線になる。 「なんかあるのか?」 「いえ、女の子ですか?」 「ああ?」  何だか苛《いら》ついているのか、語気も荒《あら》い。  僕は「おかしいですね」と冷たい前置きをして指摘《してき》した。 「どうして死んだのが女の子だって知ってるんですか?」 「何でって……」 「あの子の名前はなわみつあきですよ。男の名前としか思えないじゃないですか」  今の証言は、明らかに矛盾《むじゅん》しています。人に突《つ》きつける為の指をビシッと。  僕の追及《ついきゅう》に、度会さんは困惑《こんわく》と、呆《あき》れ顔を浮かべた。 「一樹《いつき》と同じ病室やぞ? 分からん方がおかしいわ」 「へぇ」それは確かに。 「それに新聞も見てないんかお前? デカデカと載《の》っとるぞ」  度会さんは、赤潮の如《ごと》く発生しかけた困惑《こんわく》を掃除《そうじ》して回答する。 「ああ、なるほど。そういえば見てませんでした。……で、ですね」 「次は何だ」 「もう一つ質問しますけど」 「だから、何?」 「どうして女の子が死んだって知ってるんですか?」 「だからお前は、」  そこで、度会さんの心臓と血液以外が一時停止した。  自分がどんな杜撰《ずさん》な対応をしたか、遅蒔《おそま》きに理解したみたいだ。 「テレビや新聞では、まだ失踪扱《しっそうあつか》いなんですよ。誰《だれ》も殺されたなんて記事になってない。なのにどうしてその点について言及しないんですか? 僕の言葉、聞こえてましたよね。僕は今、死んだ女の子って言ったんですよ」  耳の方はご健在なんですよね。自分の耳を指でノックし、嫌味《いやみ》な追い打ちを付属させた。  度会さんは混乱している。文章にすれば一行の、その困惑は刻一刻と移ろい、視聴者を飽《あ》きさせない。虹彩《こうさい》の清濁《せいだく》、鼻のひくつき、手の所在ない微震《びしん》。  やがて逃《に》げ口上を閃《ひらめ》いたのか、全体的な迷いが一点に収束する。 「済まんが、よう聞いとらんかった。年取ると、人の話を全部聞ける集中力がなくなってなぁ」 「そうですか。それは些《いささ》か物悲しいですね」  嘘《うそ》だけど、胸に手を当て、首を横に大々的に振《ふ》る。奈月《なつき》さんの物言いになってるな。 「災難《さいなん》と心を痛める人間の安否に、興味ないんですか。一樹《いつき》との話は問題なくリスニング出来たみたいですが」 「そりゃ、俺の孫の話だからな」  間を空けずに出た言い分にしては、筋がある。僕もマユに関してなら超音波の小言だって拾える自信がないこともない。気概《きがい》はともかくとして、嘘《うそ》だけど。 「それもそうですね。やっぱり孫は目に入れられるぐらいだから、耳の穴にも住めますよね」 「おうおう、いや意味分からん」  踏《ふ》まれ続けていた尻尾《しっぽ》を解放された犬のように、度会《わたらい》さんの肩《かた》の強張《こわば》りや筋肉が弛緩《しかん》するのを見て取れる。その一瞬《いっしゅん》に、僕は言葉を差し入れた。  肋骨《ろっこつ》の隙間《すきま》に指を突《つ》き入れる、そんな感触《かんしょく》が舌の上に巻き起こる。 「あ、もう一個あるんです」 「コロンボか……」  度会さんは弱々しく笑《え》む。まるで自分が老人であることを知らしめるように。  僕は、そんな風にしか物事を捉《とら》えられない自分を嘲笑《あざわら》いたくなった。 「殺されたって知ってるのは何故《なぜ》ですか?」  二度あることは、三度あると。  度会さんの身体《からだ》や顔面は今や、驚愕《きょうがく》と驚嘆《きょうたん》の為《ため》だけに労働していると言っても過言じゃない。  さぞかし健康に悪影響と偲《しの》ばれる。 「僕は一度しか死んだとは言ってないんです。殺された、と次はそう表現したんですよ。こっちにも疑問の余地がないんですね、度会さん。注意力散漫《さんまん》すぎますよ」  僕との会話はうわのそらでこなして構わないほど、軽々しい羽毛扱《うもうあつか》いだったのですか。  そうなんだろうな、実際。けれど、今は多少、重しとして実感して頂けてるかな。 「暖房効《だんぼうき》きすぎですよね、この部屋」  嫌《いや》な汗《あせ》で鼻がテカりを帯びてるものな。  しかし、動転しては、脳細胞《のうさいぼう》の死滅《しめつ》気味な頭部が一層、鈍重《どんじゅう》になっているのか。  度会さん本人の失言ではないのだから、もっと開き直れば反論の余地は幾らでも広がるのに。  奈月さんや先生なら、そもそもこんな下らない尋問《じんもん》に引っかからない。僕に語らせもしない。ハードル走のハードルを蹴《け》り倒《たお》す性分だから。  度会さんもその点にようやく思いを馳《は》せたのか、漫画《まんが》の主人公が決心を下した時のように、活気が宿る。声調も混濁《こんだく》を乗り越《こ》え、業務再開した。 「何でそんなことを知っとる?」  お、そんな形の反撃《はんげき》に出たか。 「俺はお前がそんな突拍子《とっぴょうし》もないこと言うから、面食らったわ。でもそれ、正しいとしたらなんでお前が知ってるんだ?」  度会《わたらい》さんが充血《じゅうけつ》した眼球で僕を攻める。なるほど、僕が犯人と仰《おっしゃ》るか。  ではこちらも、ぐうの音《ね》を言わせない嘘《うそ》で反証しよう。 「実は、その犯行を目撃《もくげき》してしまったんですよ」  真顔でフィクションを力説してみた。  度会さんは絵に描《か》いた餅《もち》のような好々爺《こうこうや》なので、真正直に信用してくれる。  気高い精神は、二十秒で瓦解《がかい》した。  呂律《ろれつ》が脱線事故《だつせんじこ》に遭《あ》い、急停止と鈍行《どんこう》の前進を繰《く》り返す。 「犯行、ってその、お嬢《じょう》ちゃんが、だから、」 「ええ、始まりから終わりまで余すところなく。いえ、あれは仕方のない殺人、いや事故と呼んでも差し支えない、やるせない死でした。死んだ本人と親族にしてみれば、過程ではなく結果に対し絶望を抱《いだ》いてしまうのでしょうけど」  あまり深く追及《ついきゅう》されると薄皮《うすかわ》一枚の嘘《うそ》は四つ折りされて更《さら》に何度か折り曲げられて鶴《つる》になって飛ばされてしまうので、相手の発言と気力を窒息《ちっそく》させる為《ため》の武器として活用する。  デパートでの奈月《なつき》さんは、この気分を無料で玩味《がんみ》していたわけだ。いや、似て非なるものか。  高齢《こうれい》者を言葉で嬲《なぶ》って心身を衰退《すいたい》させるなんて、流石《さすが》にあの苛《いじ》めっ子でも二の足を踏《ふ》みながら、一定の距離を取って拡声《かくせい》器で頑張《がんば》るぐらいだ。面と向かって口頭弁論は、世論の批判を回避《かいひ》する為《ため》に行わないだろう。なんて性悪《しょうわる》。 「ですから、一樹《いつき》との約束は守れるはずもないんですよ」  それが、本当に残念でありません。  度会さんは、どうですか?  その質問は、度会さんに送信しない。私的な都合に基づき、胸の内に下書き保存しておいた。  度会さんは虚脱《きょだつ》して、昇天《しょうてん》される間際《まぎわ》の魂魄《こんぱく》がを口開いているように、額あたりから声音が放出されていた。 「知っとるなら、何で、警察に言わんのや」 「僕には言えない事情がありますから」  知らんから、という素っ気ない五文字を訳ありと思わせぶりで着飾《かざ》ってみた。  しかし相手は、僕が知らないことを知らない。そうして植えられた疑惑《ぎわく》とは、根っこのない樹木に等しい。枯《か》らす方法を発見するか、それとも覚悟《かくご》するかしないと、苦痛が心にまで重力を感応させる。 「それじゃあ、僕は母の墓参りに行きますので、また夕方にでも。お大事に」  僕は手の平を見せ、指先をひらひらと振《ふ》って出かけの挨拶《あいさつ》をした。  鬼《おに》ごっこの鬼役は、好印象を抱《いだ》き辛《づら》いと偏見《へんけん》を持っていたけど、なかなかどうして、遊戯《ゆうぎ》の仕組みを解《かい》すればそれも転じる。  松葉杖《まつばづえ》で床《ゆか》を闊歩《かっぽ》し、不安定と恐怖《きょうふ》がせめぎ合うお爺《じい》さんだけを病室に置き去りにした。  老人、田舎《いなか》の病室で孤独《こどく》死。見出しを事前に用意できるほど、哀愁漂《あいしゅうただよ》う背中だった。  廊下《ろうか》にはまだトレイの積まれた配膳《はいぜん》車が回収されず、彼女待ちをしていた。いつも女性を尻《しり》に敷《し》き、けど後押しされているという不思議な関係を築いている奴《やつ》だ。  まぁ、物の人間関係に僕が進言することもない。配膳車に一方的な別れを告げて、マユの仮宿へ左足と松葉杖を伸《の》ばす。タクシーで気のいい運ちゃんと談話する前に、マユの様子だけ一目拝んでおこうと決めた。彼女の寝顔《ねがお》は決して、心|潤《うるお》されるミネラルウォーターではないけれど、都会の雨水でもないし、口をすすぐ泥水《どろみず》でもない。かといって浄水《じょうすい》された水道水ほど味気ないわけもなく、むしろ地下水的な神秘性。叔父《おじ》の家の飲料、未《いま》だに井戸《いど》水なんだよなあ。田舎《いなか》って素敵《すてき》。閑話休題《かんわきゅうだい》。  脱線したけど、マユの無意識の表情を眺《なが》めに行くことは決定済みだ。でも無意識があれだけ彫刻面《ちょうこくづら》なのだから、僕といる時の方が、意識的ってわけだ。何だか、哲学《てつがく》の香《かお》り。  そんな文学的な知的好奇心とは、縁故《えんこ》を持つのにアマゾンの奥地に住む字宙人の介助《かいじょ》でもなければ不可能な、体育会系の階段の前で僕の移動は赤信号になった。  この病院、階段の角度がきわどいうえにやたら長い為《ため》か、エレベーターが大人気だったりする。けど若者が利用すると、あぶれた老人勢に妬《ねた》ましい目線で焙《あぶ》られる故《ゆえ》、体面に虚栄《きょえい》を張る患者《かんじゃ》は柔道《じゅうどう》部の合宿的な気負いで階段を昇降《しょうこう》する。僕など誰《だれ》一人利用者の姿がなかったとしても素通《すどお》りする。そう自慢《じまん》したら奈月《なつき》さんに『疲労《ひろう》骨折はお好きですか?』と尋《たず》ねられた。嫌《きら》いです。  その階段を、三秒ほど寿命《じゅみょう》を磨《す》り減《へ》らして踏破《とうは》した。そこからすぐの廊下《ろうか》で、自室から出て正面の窓から何かを放《ほう》り捨てているマユを見つけることに成功した。 「………………………………………」  その何かは、僕が先生から貰《もら》った(ことにした)漫画《まんが》だった。マユの右手に相応《ふさわ》しい、青色の柄《え》のハサミが紙の束を表紙、中身と縦横無尽《じゅうおうむじん》に微塵《みじん》切りし、大まかに処理を終えて鍋《なべ》ではなく窓の外に放る。次は、漫画の中心にハサミの刀身《とうしん》を貫通《かんつう》させて、そこから強引に開け放って破壊行為《はかいこうい》を行い出す。その地球の資源を無駄遣《むだづか》いし、投棄《とうさ》して汚染《おせん》に勤《いそ》しむ姿を、病院関係者は冬に相応しい冷めた態度で無視している。彼らは人命を救助する役割を担《にな》っているのであり、母なる星までは手が回らないからである。嘘《うそ》だけど。単に、暴力的なお近づきの印と、とばっちりを頂戴《ちょうだい》したくないからだ。  マユの作業を中断させる目的も含《ふく》めて、僕は窓際《まどぎわ》に接近した。僕の独特の足音に反応し、マユが手を休めて僕に振《ふ》り向いた。当然、外なので能《のう》を嗜《たしな》む表情だ。 「や、おはよ」  昼過ぎなので、清く正しい日本語の概念《がいねん》ではこんにちはを用いるべきなんだろうけど、以前にそう挨拶《あいさつ》したらマユに叱《しか》られた。起きたらおはようなのって。 「何してるの?」  返事はなかったので、また僕から発言した。ハサミが、一度開閉する。 「これ、みーくんのじゃないでしょ」  漫画《まんが》の残骸《ざんがい》を載《の》せた手の平を突《つ》き出してくる。ページの切れ端《はし》には、首より下を物的要因で失ったヒロインが微笑《ほほえ》んで流血していた。……いや、変だな。この漫画は白黒の二色|刷《ずり》なのに、どうして、真っ赤な血潮で塗《ぬ》り絵されてるんだよと考えるまでもなく、事実は目前にあった。 「まーちゃん、その指……なに?」  薄皮《うすかわ》一枚や身肉を銀の刃《やいば》で切断した、マユの指々。それが絵の具兼《けん》、絵筆となっていた。  ささくれが幼稚園《ようちえん》児|扱《あつか》いされるほど、爛熟《らんじゅく》した朱色《しゅいろ》の亀裂《きれつ》が幾重《いくえ》にも、指を計画性なく走破している。重なり、交差し、肌《はだ》を血の汗《あせ》が苛《さいな》む。手の平にも、運命線や健康線の他《ほか》に独自の手相|占《うらな》いが出来そうな自傷が追加されている。血糊《ちのり》で張り付いた漫画の切れ端も満載《まんさい》だ。  ハサミを駆使《くし》する利《き》き手である右の指まで、一家|惨殺《ざんさつ》と見|間違《まちが》う荒廃《こうはい》を催《もよお》していた。  けれどマユは痛覚を訴《うった》えもせず、ただ、見舞《みまい》品の履歴《りれき》について目線で追求《ついきゅう》してくる。 「なんで、指まで切った?」 「臭《にお》いがついてたから」 「は?」 「こんな本の臭いがついたから一緒《いっしょ》に切った」 「………………………………………そう、なんだ。」  感情の迫随《ついずい》しない、純粋《じゅんすい》な肯定《こうてい》を返すしかなかった。  林檎《りんご》を丹念《たんねん》に扱うその態度は、何処《どこ》へ霧散《むさん》してしまうんだろ。  取り扱うものは、互《たが》いに赤を基調としているのに。  マユは常に、僕の予想と期待を軽々と超越《ちょうえつ》する。  血の臭いを嗅《か》ぎ、一度、満足げに顎《あご》を引いてからマユは僕を睨《にら》み付《つ》けた。 「そんなことより、誰《だれ》から貰《もら》ったの? 誰が来たの? 誰と会ったの?」  三段に僕を問いつめるマユ。生赤い液体の付着した二枚刃の切っ先を、無意識に僕へ見せびらかす。死にたくないので、普段《ふだん》通りに嘘《うそ》をつくことにした。 「友達がさ、入院してると退屈だろうって置いていったんだ。けどそいつはまーちゃんのことを知らない不届き者だからねぇ、全くやれやれさ」  演技で肩《かた》を派手に竦《すく》め、別の意味合いで溜息《ためいき》を漏《も》らした。気分の良い嘘じゃないけどさ。  けど、君の大|嫌《きら》いな嘘つきと会いました、なんて僕が正直者だったらハサミが磁石と勘違《かんちが》いしてこっちへ飛んでくるぞ。ただでさえ血生臭《ちなまぐさ》いのに、これ以上無駄《むだ》な血を流すなら輸血してこいとお医者さんに怒鳴《どな》られそうだ。  叔母《おば》が持参した、果物《くだもの》の入院セットもマユが『破壊《はかい》』したからな。  美化委員の血が疼《うず》いて、後片づけは率先《そっせん》して僕が行《おこな》ったんだけど嘘《うそ》だけど。 「じゃあ捨てていいよね」 「いいけど……ゴミ箱を使おうよ」  退院したら、小遣《こづか》いを投資して買い直さないとな。それとこの後、絆創膏《ばんそうこう》を看護師さんにでも貰《もら》ってこないと。 「でさ、まーちゃん。ちょっと直立不動して……ああ、真《ま》っ直《す》ぐ立ってとお願いしてる」  僕の注文に素直《すなお》に従い、マユが猫背《ねこぜ》で正面を向く。  僕はそれに一度頷《うなず》いてから、窓際《まとぎわ》に松葉杖《まつばづえ》を日干しさせて、片足でバランスを取る。  それから、高校生の春夏が訪《おとず》れ辛《づら》い懐《ふところ》と変人(あ、恋人と間違《まちが》えた)の機嫌《きげん》を潤滑《じゅんかつ》にする為《ため》、僕は白昼堂々、マユに対して抱擁行為《ほうようこうい》に及《およ》んだ。 せめて最終巻だけは五体満足に確保しようと、足掻《あが》いてみたくなった。そして、マユの指がこれ以上、血液|塗料《とりょう》を用いない為にも。  加えて、人前でこの類《たぐい》の状態に及ぶと、どう反応するのか興味もあったし。  おずおずと僕の背中に回されるマユの手には未《いま》だ、てこの原理で物体を切断する道具が接続されている。多色の意味で背中を冷却《れいきゃく》する、夏場の納涼《のうりょう》にまで敬遠されそうな状況《じょうきょう》。  マユの指先から僕の背中に滲《にじ》む血液は、金属のように鋭利《えいり》に冷たい。  マユは目と口を瞼《まぶた》と唇《くちびる》で封印《ふういん》し、無抵抗《むていこう》に身を委《ゆだ》ねている。  まだ医者の手が加えられてない為、不細工な包帯の巻き付けをしている。  ……名和三秋《なわみつあき》の無念を晴らす策は整ったけど、マユの頭傷の方も、早々に復讐《ふくしゅう》代行しないとな。あ、理由だけ嘘《うそ》ね。  それにしても軽率《けいそつ》だったかな、前例があるのにマユの部屋に預けておくなんて。  この出費と、マユの直接的なダイエットは僕の所為《せい》か。 「………………………………………」  君は、マユの隣《となり》に寄り添《そ》って嫌気《いやけ》がささないのか?  そう質問してきたのはマユ祖父だったか。  マユ祖父母は、孫を忌避《きひ》していた。  だから、僕の下《もと》へ訪ねてきた後、マユとは顔を合わせず帰宅した。  大体の人が、マユの内面を覗《のぞ》けば距離《きょり》を置く。  けどさ、そういう子だからこそ、僕が独り占めする機会に恵まれているわけだ。そして、その代価として、悪意を追い払《はら》う殺虫剤《さっちゅうざい》の役目を自ら担《にな》っている。  ……というか  独占《どくせん》されているのは、僕の方が適切なんだよな。  厄介《やっかい》事を終わらせて、平和になってまたバカップル始めて。  そんな、とってもありきたりな毎日を望んでいる、謙虚《けんきょ》な僕らに幸あれ。  嘘《うそ》じゃない方が、いいんだけど。  墓参りに行って、今起きてる事件を解決して退院するまでには、真偽《しんぎ》を出しておこうか。 [#改丁] 五章『手の届く空を見上げて』 [#ここから3字下げ] みーくんとはあんまり遊ばなくなった。 最近はおじさんとお話してる方が楽しい。 おじさんはよく、「妻も子供もいるが、友達はいないのだよ」と冗談を言う。 その後、わたしは決まって、「わたしが友達だよ」って言う。 そうすれば、おじさんも嬉しそうだし、わたしも笑顔。 おじさんとは色んな話をした。 好きな物について語ったし、嫌いな物について愚痴も聞いてくれた。 おじさんは自分のことをサンタって言ったけど。 わたしにとって、おじさんがサンタさんのプレゼントに思えた。 「おじさんは、ほんとにサンタさんみたい」 わたしの、鎚りを込めた言葉におじさんは目を細めて笑う。 そして、 なってみたいね、って。 おじさんは、本当に楽しそうにそう言った。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]  老人|虐待《ぎゃくたい》を初体験してから、四日|経《た》った。  その日の夕方、僕はマユの部屋で爪《つめ》を切っていた。  僕のではなく、マユの平爪を。  ベッドに重ねたティッシュの上にかざすマユの、絆創膏《ばんそうこう》と包帯が五本指や手の平に遠慮《えんりょ》なく群がった手をお預かりして過分な爪先を切り、ヤスリで磨《みが》きを入れる。放置しておくと不精者|故《ゆえ》に伸《の》ばしっぱなしになり、抱《だ》きつかれた際に僕に突《つ》き刺《さ》さるし、それはいいとしても、その拍子《ひょうし》にマユの爪が折れて痛がる可能性がある。 「なんかこーいうのいいね。お姫《ひめ》様みたい」  先程《さきほど》から、笑い声に上位者の余裕《よゆう》を醸《かも》し出させているマユが、そんな感想を述べた。  確かに、マユは浮世|離《ばな》れした美少女なのでそれも不似合いではない。 「でね、みーくんが王子様」 「王子よりか、姫の指先をお手入れする召使《めしつか》いさんの方が相応《ふさわ》しいかな」  仮に王子だとするなら、枕詞《まくらことば》としてバカが必須《ひっす》だろうし。  剣呑《けんのん》と無縁《なえん》の会話を楽しみながら、パッチンパッチンと、小気味よく指の刃《は》を切除する。 「召使い……みーくんが尽《つ》くしてくれるのも、いいなー」  なぜ《なぜ》かマユは涎《よだれ》を啜《すす》った。食事は三十分ほど前に胃腸に速達したはずですけど。 「僕は昔、働き蟻《あり》と他称《たしょう》されてたからね。仕えるのが性に合ってるよ」 「えー、みーくんは昔からずーっとみーくんだよ」 「あーまーそーね」  ざっくばらんに流して、足の爪へ移行した。  小足の踵《かかと》部に指を添《そ》えて持ち上げ、手ほどは成長していない爪を切り落とす。幼子《おさな》のように触《ふ》れ心地《ごこち》のいい指である。以前、マニキュア塗《ぬ》りに従事する時も同じ感想を持った。 「ところで、今日のお昼は何処《どこ》行ってたの?」  マユが申し訳程度の笑顔《えがお》で、覆《おお》いきれていない疑惑《ぎわく》をぶつけてくる。 「みーくんとこに行ったらいなかったんだけど」 「あれ、今日はお昼寝《ひるね》してなかったんだ」 「三時に起きたもんねー! 子供扱《あつか》いすんなー!」  保育園児の反抗《はんこう》で足が暴れ、踵が爪塚《つめづか》に落下したことでベッドへ散乱してしまった。爪切りを放り出し、回収作業に追われる。その最中、憮然《ぶぜん》としているマユをどう騙《だま》すか思考していた。  事実としては、ここ数日同様、西|病棟《びょうとう》の一室に住み着いているお婆《ばあ》さんと煎餅《せんべい》を齧《かじ》ってた。で、『そうなんですか』『ほんにまぁ』『そがんことがねぇ』などと似非《えせ》方言を駆使《くし》して口説《くど》いただけだ。これも浮気、または不倫《ふりん》と扱《あつか》われるのかな。お相手が人妻ではあるしなぁ、あるけどさあ、情緒《じょうしょ》が大事だ型日本語は。お嫁《よめ》さんと称《しょう》するのも言葉の空気|抵抗《ていこう》が激しいし。  さて、どうしたものか。友達ん家《ち》に遊びに、法事があって、キノコ狩《が》り、学習|塾《じゅく》。使い古された言い訳では、新人類のマユを現金|払《はら》いしたくなるほどにこにこ笑顔《えがお》にすることは不可能だ。  何せ、死体だろうと嫉妬《しっと》対象の、違《ちが》う意味で心の広い子だしな。  垢《あか》を煎《せん》じて飲む為《ため》、爪《つめ》を集め終える。真偽《しんぎ》はどっちでもいいけど、時間稼《かせ》ぎは終了してしまった。売店に行ったという嘘《うそ》は危険だ、マユが確認《かくにん》した可能性も高い。  明るく楽しい男女交際には、頭を悩《なや》ます面倒《めんどう》事が満載《まんさい》なわけで。 「……じー」ジト目が僕を苛《さいな》む。「……ふは、これを取りに行ってたのさ」  備えあれば命あり。四方に折り畳《たた》んだ紙切れに相応《ふさわ》しい、人情の如《ごと》く薄《うす》い僕の生命を託《たく》した。  まさか、こんなにも早い登板をお願いすることになるとは。 「なにこれ?」 「婚姻届《こんいんとどけ》」  学校でエロ本を受け渡《わた》しされ、鞄《かばん》にしまい込む男子中学生ぐらい慌《あわ》ただしく紙を開くマユ。真っ二つに破れるんじゃないかと危惧《きぐ》するほど勢いよく折りを解かれた用紙を眺《なが》め回し、マユは不機嫌《ふきげん》を失った。で、僕に突撃《とつげさ》してくるのはお約束。 「にゅふふきゅくくくく」  えびす顔ってお初にお目にかかった。後、頭の螺子《ねじ》が取れる瞬間《しゅんかん》も、目撃《もくげき》するのは久方《ひさかた》の時を経ていた。 「じゃーわたし、今日からみーまーちゃんね」 「おーそいつぁーいいや」  よし、ごまかせた。奈月《なつき》さんに見舞《みまい》品として要求しておいた、過去の僕は偉人《いじん》。でも離婚《りこん》届は余分だった。これ見せたら、結婚してないのに泣いて拒否《きょひ》されるぞ。  早速名前を書き込もうとするマユを制し、繋《つな》いだ命の味を噛《か》みしめながら爪を切り終える。  次は耳|掃除《そうじ》だった。  僕がマユにしてもらった回数は、嘘を一度もついたことのない世界中の大人と同じ数字だ。  ごろごろと膝《ひざ》の上を回転し、趣旨《しゅし》を理解してないマユの首根っこを掴《つか》んで耳を髪《かみ》から掻《か》き出す。耳たぶが羽ばたき、ぞんざいな扱《あつか》いに抗議《こうぎ》の意を表してきたけど構わず、綿棒を耳の穴に差し込む。耳の廃棄《はいき》物をほじくり出して、ようやくマユの電源が切れた。 「む、村の蓄《たくわ》えがぁ」「こんな物を年貢《ねんぐ》にしたくないんだけどね……」  ふざけるマユと、若干真面目《じゃっかんまじめ》な僕という、正反対の会話になった。 「これからは偶《たま》には自分でするように」 「えー、やだ。みーくんがしてくれるもん」 「子供じゃないんでしょ?」 「まーちゃん、いまだけ六歳《さい》」  その証《あかし》として、出来うる限り自覚的に、あどけない表情を創作した。主張が都合に適応して変化するあたり、マユもお年頃《としごろ》の女の子だったりする。  三十歳と詐称《さしょう》するよりは的確か、と結論づけて、ほじほじを続行する。  マユは炬燵《こたつ》で暖《だん》を取る主婦のように、行儀《ぎょうぎ》良く身を任せている。  居心地《いごこち》のいい無言。  それが続く中で、何の気なしに記憶《きおく》が呼び覚まされた。  ……耳かき、か。  昔、勉強するという建前で長瀬の家へ連れられてお伺《うかが》いした。長瀬の自室で、今では悶死《もんし》する呪詛《じゅそ》に成り果てた、甘い血の池|地獄《じごく》のような会話を交えながら耳を掃除《そうじ》してもらった。使用後の耳かきの先端《せんたん》に赤色が付着していたのが思い出深い。  その後は、ええと……僕は少年|誌《し》の主人公目指してるから、省略。  でも、その翌日の月曜日に関係を解消することになるとは、未来の僕ら以外|誰《だれ》が思ったろう。 「……はい、反対向いて」  マユが万歳《ばんざい》しながらころころと半回転する。次は右耳だ。綿棒もひっくり返す。 「終わったらお風呂《ふろ》入ろーね」  入浴時間や消灯《しょうとう》といった規律に無縁《むえん》な入院生活を送っている少女は、屈託《くったく》と恥《は》じらいなく提案してくる。その後でも間に合うだろう、と判断して僕は「そうしようか」と賛同する。  それから、また寡黙《かもく》な空間に立ち戻《もど》る。  まだ記憶は画面に上映されていて、単に一時停止されていただけだった。  少し躊躇《ためら》い、続きを再生する。  長瀬の家の前で、また明日って約束して別れた翌日。  僕たちが他人に戻《もど》った原因。  長瀬が、僕の過去を知ったこと。  伝達経路は幾らでもあった。かつて、僕の友達だった人とか。  数日前から教室でも仲の良かった僕と長瀬を見かねて、誰かが素性《すじょう》を忠告したんだろう。  今まで、長瀬が無知であったことの方が、よっぽど非常識な人種だったわけだ。  その後の、放課後に長瀬と向かい合った時。  覚えている。  長瀬の、噛《か》み潰《つぶ》したくもない苦虫《にがむし》が口内に入り込んできたような態度も。  彼女が、『知りたくもなかった』と吐《は》き捨てたことも。  多感な十代を気取っていた僕は、その一言に傷ついたフリをして、長瀬と別れた。  自分の立ち位置を思い出させてくれたことに感謝しながら。  どうしようもねえなあって。  でも、今は違《ちが》うものを抱《いだ》いている。  あれは間違《まちが》いだった。  僕らはまだ、縁《えん》の切れた他人同士じゃなかった。 「いつも思うけど、変な癖《くせ》だね」  右の耳を刺激《しげき》すると、マユは軽く咳《せ》き込む。僕の父親も、確かそんな兆候があった。 「これはまーちゃんのあいでんててーなのです」 「そんな重要なら定期的に掃除《そうじ》しときなさい」  マユは黙殺《もくさつ》した。頬《ほお》を僕の太股《ふともも》にすり寄せ、安らいでいる。  ……何だかんだで、僕もこの役目を担《にな》うのは悪くないな、と納得《なっとく》していたり。 「はい、終わったよ」 「ぐてー」  マユは伸《の》びきり、微塵《みじん》も移動の意志を見せない。 「いやぐてーじゃなくて……風呂《ふろ》は?」  別に期待してるわけじゃないけど。本当の本当に。 「みーくんのふとももにやられました」 「あのねぇ……それ、普通《ふつう》は男の立場だよ」 「もう立てないのです」 「……ま、いいけどね」  いいけどさ。  ……人間、立ち上がり続ける奴《やつ》が勝つ。  大多数の人が信奉する、人生の定理。  ええ、真理でしょう。  けど、七転《ななころ》び八起《やお》きの為《ため》には七度目まで転ぶ必要がありそれ以前の、六度の転倒《てんとう》で、取り返しのつかないものを失う人が大多数だということを、弁《わきま》えれば。  しかし、それでも、底なしに落ちないだけマシだ。  転んで、這《は》い蹲《つくば》ることの出来る地面さえ、僕らは失ったのだろうから。  ……さて。  今日も元気に、賞味期限が尽《つ》きた魚を調理しに行こうか。  消灯《しょうとう》前に訪《おとず》れた病室は、意気消沈《いきしょうちん》という四字熟語《よじじゅくご》が相応《ふさわ》しい、陰気《いんき》の溜《た》まり場になっていた。灯《あか》りを落とす必要なく、快眠《かいみん》出来そうな暗色の心情が立ちこめている。  原因は勿論《もちろん》、度会《わたらい》さんだった。  僕と談話して以来の四日問は錯乱《さくらん》気味で、布団《ふとん》に張り付いて妄想《もうそう》の脅威《きょうい》から防護を図るか、譫言《うわごと》を日がな一日、俳句を詠《うた》う俳人の如《ごと》く独《ひと》り口ずさむだけとなっている。院内で煙《けむ》たがられながらも職務に励《はげ》む警察の皆《みな》さんに僕の持ち得る情報を密告されてはと、気を病《や》む毎日なのだろう。  その度会《わたらい》さんの末期《まっき》を迎《むか》えた様子に対し、高校生は敬遠策を実施《じっし》し、中年は我も負けじと呟《つぶや》きを断続的にこなすようになった。僕は三日前から積極的に交流を試《こころ》みているけど、今一つの反応しか得られない。  医者や看護師も、精神は専門外なので対処に戸惑《とまど》っている。親族とも絶縁《ぜつえん》状態で、籍《せき》と同様、同時入院を果たしたオシドリ夫婦の片割れさえ「知りませんよ」と気温|零度《れいど》の態度でテレビ鑑賞《かんしょう》に勤《いそ》しんでいる。老人は、もう相互《そうご》的な繋《つな》がりを失っているのかも知れない。  だから僕が孫代わりになろうと、甲斐甲斐《かいがい》しくお話相手になっているのである。  嘘《うそ》すぎるけど。  さて、三日坊主《みっかぼうず》となることが望ましい日課を開始するか。 「度会さん、お加減どうですか?」  相手が嫌《いや》がるように、わざわざ膝《ひざ》を屈《かが》めて目線を合わせる。そうすると、度会さんは若僧《わかぞう》である僕に徹底《てってい》的な恐怖《きょうふ》で皺《しわ》を十本追加し、親友である布団《ふとん》の背に隠《かく》れてしまう。  せっかく度会さんが気力を振《ふ》り絞《しぼ》り、顔面を外界に出して戦々恐々《せんせんきょうきょう》としていた努力を台なしにしてしまった。反省することしきりだけど、それ以外にも山のように反省材料があるので、実行される日は五年ほど待ちぼうけだ。 「今日も死体が見えてますか?」  文通の定型句みたいに、軽々しく尋《たず》ねた。ペンパルからのお便りは来ない。  だから僕も、普段《ふだん》通り一方的に怪文《かいぶん》を垂《た》れ流す。 「貴方《あなた》が怯《おび》える死体は女の子ですね?」囁《ささや》き「貴方はその女の子を知っている」「皮膚《ひふ》の感触《かんしょく》まで知り得ている」祈《いの》り「どんな血の色をしているか」「死に顔がどのように崩《くず》れているか」詠唱《えいしょう》「全《すべ》て貴方は経験している」念じろ。  めぼしい反応が返ってこない為《ため》、効果の程《ほど》は些《いささ》か不明瞭《ふめいりさつ》。けど継続《けいぞく》は力なりともいうし、それなりの影響《えいきょう》はあるはず、と楽観的に受け止める。  退院まで、後二日。それまではこの行為《こうい》を繰《く》り返し、変化がこれ以上表れなかったら……野となれ山となれでいこう。度会さんの今の状態では、他者への障害《しょうがい》物を務《つと》めることは難儀《なんぎ》と困難の板挟《いたばさ》みだろうし。  衰弱《すいじゃく》した老人の耳元で何事かを囁く少年に対し、世間は異様な視線で明視してくる。ただ、手足を稼働《かどう》させる具体的な行動に出る正義感の高校生と中年は何処《どこ》にもいない。 「女の子は何か喋《しゃべ》りかけてきませんか?」  耳栓兼《みみせんけん》アイマスクの役割を果たしている布団を引っ剥《ぱ》がそうとする。それは血管が浮き出すぎて、繊《しわ》が注目されない手に阻《はば》まれた。 「何故《なぜ》、女の子は度会さんの下《もと》へ足を運ぶんでしょうね」  初恋の少女ですか、と低俗《ていぞく》に囃《はや》し立てる。度会さんの感想は空気なので、味気ない以前の空虚《くうきょ》さだった。 「早く元気になって、一樹《いつき》の顔を見に行ってあげてくださいよ」  あの子は、今の貴方《あなた》の生き甲斐《がい》でしょうに。  姉の方は、今一つみたいですけど。  今日の見舞《みまい》という大きなお世話は、ここを引《ひ》き際《ぎわ》にした。 「おやすみなさい、また明日」  恭《うやうや》しく慇懃無礼《いんぎんぶれい》に就寝《しゅうしん》の御挨拶《ごあいさつ》を告げ、中年にだけ会釈《えしゃく》をして病室を後にした。  誰《だれ》もいない廊下《ろうか》で、一度だけ立ち止まってからマユの部屋を目的地に設定する。  度会さんの精神衛生と僕の健康上、今はあの病室の安全性には疑ってかかるべきだ。  見えている落とし穴の隣《となり》で眠《ねむ》りこけるほど、自信家じゃない。  にしても、度会さん。  いつまでああしていられるかな。  窓を埋《う》め尽《つ》くす漆黒《しっこく》のように、先行きの暗い状況《じょうきょう》だからな。崖《がけ》に足がかかったら、永遠に直立不動でいることは不可能だし。  本人より先に、足下《あしもと》が瓦解《がかい》する確率も十分あるし。  この廊下くらい、土台が安定した老後を送るのが夢ですと語っていたのに、不欄《ふびん》な。かなり嘘《うそ》だけど。  そろそ背中の方から怒号《どこう》とそれに準ずる何かが飛来してきた。  不意に悪寒《おかん》に導かれて横へ跳《は》ねられるわけがない。  ふりか、パイプ、椅子《いす》?  右|肩《かた》を遠慮《えんりょ》なく痛打されて、右の松葉杖《まつばづえ》を取り落として床《ゆか》にもんどり打ち、苦悶《くもん》を唇《くちびる》から垂《た》れ流しているのに、脳味噌《のうみそ》は凶器《きょうき》の種類を断定することしか出来ていない。  咄嵯《とっさ》に左手に残った松葉杖を振《ふ》り回し、次の一撃《いちげき》を相殺《そうさい》した。けど手は衝撃《しょうげき》で痺《しび》れてマメも潰《つぶ》れ、松葉杖という抵抗《ていこう》を僕は床《ゆか》へ投げ出す形になる。それを拾う前に、僕は天井《てんじょう》を見上げてしまった。  血走った目の度会さんがパイプ椅子を振り上げていた。むしろ元がつジジイフルスイングが僕の横《よこ》っ面《つら》を遠慮《えんりょ》なく削《けず》った。首だけが独立宣言しそうな一撃に、空間の認識《にんしき》が白紙になる。すっ飛んだ細切れの時間を認知する暇《ひま》はなく、第二撃が僕を穿《うが》っていた。こめかみを中心に、斜《なな》めに側頭部を打ち据《す》えられた。耳が七割千切れた感触《かんしょく》、錯覚《さっかく》だよな?  自分が苦痛の悲鳴をあげかけている。耳が何かの音を拾っているのに、それを更《さら》に何かに妨害《ぼうがい》される。血流が洪水《こうずい》を起こし、度会さんの奇声《きせい》、絶叫《ぜっきょう》、電波を遮断《しゃだん》する。それにより、音声を消去した映画を鑑賞《かんしょう》しているような、今一つ実体のない衝撃《しょうげき》と痛みが僕をひしゃげさせたり捻《ひね》ったり削ったりする。右手を上げる余裕もない。  パイプ椅子での往復ビンタに、身体《からだ》の芯《しん》というか、支えを破壊《はかい》された。前のめりに男らしくない倒《たお》れ方をする。床《ゆか》で真っ平らに加工された鼻は、鮮烈《せんれつ》な痛覚を催《もよお》した。  頬《ほお》の血が床と擦《こす》れ合い、気味の悪い感触《かんしょく》。けど、しかめ面をする余力もない。  度会《わたらい》さんの快進撃《かいしんげき》は小休止しているのか、僕の一メートル六十センチ上を行く荒《あら》さで酸素をかき集めている。棺桶《かんおけ》の宿泊券《しゅくはくけん》を携帯《けいたい》している身分で随分《ずいぶん》と人生を謳歌《おうか》してる人だ。  このまま床に膝枕《ひざまくら》してもらっていれば、無料招待券は僕に譲渡《じょうと》される。けどほら、僕は悪運強いみたいだし、このまま船を潜いでいても誰《だれ》か助け船を漕いできてくれるかも。  などと楽観的になって、今度こそ死んだらどうしよう。  ……いや、死んだらどうするかって、どうしようもないよな。  死ぬってのは、そういうことだから。  たとえ死体に意志が宿っていても、それを外へ晒《さら》すことは許されない。  罵倒《ばとう》されても言い返せないし、殴《なぐ》られたら一方的だし、好きな子に告白も無理で、誰かの彼女を奪《うば》い取ることだって夢のまた夢だ。  でも、それだけだって割り切れるところもある。誰かを大切にして、たくさんのものを得て、別離《べつり》を経験して、素晴《すば》らしい人生を歩んで。だから、どうなんだって。  たとえ死ぬまで好き勝手に生きたって、何が残せるわけでもない。じゃあ何の為《だめ》に自由意志で日々を送るかって、それは死ねまでの退屈《たいくつ》しのぎじゃないのかって。  生きる価値っていうのは、尊く壮大《そうだい》な暇潰《ひまつぶ》しでしかない。  生きる意味は時間潰しで理由は嫌《いや》なものを先送り。  それだけなんだけど。  ……それが、貴重なのかもって時々実感しちゃうわけだ。  だって死んだら、まーちゃんとえろいことも出来やしないんだぜ。  ……少し前までは、死んでもよかった。  でも、今は違《ちが》う。もう少し前まで、生きておきたい。  生きるか死ぬか、試すのはもういい。飽《あ》きたんだよ。  生まれた意味なんかなくても理由はあるし、生きる理由や意味がなくても個人目標はある。  明るく楽しく暖かく滑稽《こっけい》に虚偽《きょぎ》にマユの側《そば》にいる。  僕が死んだら、マユが次のみーくんを上手《うま》く見つけられるとは限らない。  そんな苦労はあまりかけたくない.  だから、ここで死んでいるわけにはいかない。  長瀬《ながせ》にも、伝え忘れたことがあるのだから。  這《は》い蹲《つくば》る僕に残された武器は、獣《けもの》と同じものしかなかった。  左手の傷を考慮《こうりょ》せず酷使《こくし》してバネ代わりとし、僕は水平に跳《は》ねる。  後は、その水虫臭《みずむし》い足の親指を、噛みちぎるだけだ。  遠慮《えんりょ》を砕《くだ》く。躊躇《ためら》いをはね除《の》ける。  常識の枷《かせ》を失った僕には、造作のないこと。  歯を突《つ》き立て「$#&$&(,&)!」度会《わたらい》さんの悲鳴、身体《からだ》を捻《ひね》って人体の表層を削《けず》り 「#”()&((〜)〜%&$%$!」絶叫《ぜっきょう》、食い込ませる。度会さんの喚《わめ》き声が僕の上部で唱歌されていく。我慢《がまん》は一切《いっさい》ない。  僕の後頭部を椅子《いす》で叩《たた》き潰《つぶ》してくる。それは痛覚を飛び越《こ》えて熱を滲《にじ》ませる。スリッパで撃退《げきたい》されるゴキブリの気分。けど意識は遠のかず、歯が肉に食らいつく後押しとなるだけだった。度会さんの甲高《かんだか》い声が音程をより外れる為《ため》に加速する。  一発、二発三発四発|次第《しだい》に間隔《かんかく》が短くなってくる。好都合だった。振《ふ》りかぶる間を短縮《たんしゅく》し、一撃の威力《いりよく》は減退の一途《いっと》となっている。さっきまでの暴力を我慢《がまん》出来たのに、それより劣《おと》る痛みに耐《た》えられないわけがない。分かってないんだよ度会さん、僕の親父に教えを請《こ》え。  前歯が、固いものに到達《とうたつ》した。骨だ。歯の裏側にはにちゃりとした肉の感触《かんしょく》。引きつる筋の味。それと血。血、血、血。滑《なめ》らかな血、粘《ねば》つく血、爽《さわ》やかな血。口内に貯水《ちょすい》されていく体液に呼吸を妨害《ぼうがい》されるので、酸素と二酸化炭素の交換《こうかん》は一時中止させた。ここが踏《ふ》ん張りどころと読んだ僕は、せーのと拍子《ひようし》を置き、前歯に精力を託《たく》した。  グチャグチャするぐちゃぐちゃするグチャグチャする肉を血を神経をグチャグチャする一生懸命《いっしょうけんめい》する生きる為《ため》に人間を中止する、千切れろ千切れろ、ちーぎーれーろ!  パイプ椅子が床《ゆか》に身投げした快音。度会さんが攻撃《こうげき》意志を吸い取られて防衛本能に身を託《たく》し、捩《よじ》って悶《もだ》える。床で転げ回って足も振り回す。僕を引き剥《は》がそうと必死だ。釣《つ》りみたいだなと、血の気が不足している頭は薄《うす》らぼけた解釈《かいしゃく》しか出来ない。数十秒間、魚ごっこをしてようやく、逃《に》げればいいのかと正気に返った。手探りで松葉杖《まつばづえ》を一本|握《にぎ》り、そこで口を離《はな》した。  僕が上体を逸《そ》らしても、度会さんは立ち上がれない。もっとも、カウント制の試合なら僕の敗北だったけど。  度会さんの腹部に松葉杖を突《つ》き、全体重をかけながら立ち上がる。  口の中は当然、血と足の指の味、それに歯の裏側は肉の切《懸》れ端《はし》がこびりついている。床を汚《よご》すのもなんだからと、飲み込んだ。これぐらいの不快なら、吐《は》き気《け》一つ生まれない。たかが、この程度で。  痙攣《けいれん》している度会さんを、赤いフィルターがかかった世界で見下ろす。耳はシャッターで閉鎖《へいさ》されていない為か、周囲の患者《かんじゃ》のざわつきが雪崩《なだ》れ込んでくる。襲撃《しゅうげき》してきた度会さんの悲鳴を聞きつけた野次馬《やじうま》が、遠巻きに僕らを眺《なが》めているらしい。 「しかし、検査がいらないわけだ……」  爺《じい》さんハッスルしすぎ。蝋燭《ろうそく》の最後の灯火《ともしび》という表現、肌に血を染《し》みこませて理解した。 「つうか、孫といい、爺さんといい……」  真っ当に球を打ち返してるのは、一樹《いつき》だけかよ.  駄目と念を押す金的蹴《きんてきげ》りと、欝憤《うっぷん》晴らしの松葉杖での臑《すね》攻撃は体調不全の為、お休みする。  それに、この人には恨《うら》み自体はないから。  よし、治療《ちりょう》を依頼《いらい》しに向かうか。この一件を叔父《おじ》や叔母《おば》に病院|繋《つな》がりで連絡《れんらく》されたら、君子危《くんしあや》うきに近寄らずを主軸《しゅじく》とする説教に見舞《みまい》されることは聞違《まちが》いない。でも今は命が欲しい。  松葉杖《まつばづえ》を放《ほう》り捨て、片足で走ることにした。  首の後ろ周りを駆《か》ける血液を鳥肌《とりはだ》が熱烈歓迎《ねつれつかんげい》する。跳躍《ちょうやく》と着地の度《たび》に赤色の斑点《はんてん》を床《ゆか》にマーキングする。グレーテルが同伴《どうはん》していないから、道に迷っても困らないんだけど。むしろ、遊興の一環《いっかん》でさえある。この廊下は僕らの病室付近なんだから、向かうべき病棟はあちらこちらで、天国は、そっちか。よし、行かない。でも、あれ? 周囲の人達は何処《どこ》行ったんだ?なんて、僕は混乱してないぞ。頭部が血や熱にかき乱されて認識《にんしき》力が不足しているだけという安直な正解を導き出しているので、問答する必要なんかない。  さあ、楽しみまくるぞ。  今、何処を歩いてるんだろう? 叔母は僕を許すだろうか? 退院ってさせてくれるのか?今は夜か? 僕は僕か? 何処までが正しい僕なんだろう?  あー、気持ちいい。悩《なや》んでるフリしてるだけで、全然頭|遣《つか》ってない。  前後不明瞭《ふめいりょう》の酔《よ》っぱらいってのは、こういう倒錯《とうさく》した解放感を味わってるのかな?  飲酒はまだ未経験だから、要領を得ない。  そうして、和製キョンシーとなって飛んでいたら、何|棟《とう》か判断出来ないけど廊下《ろうか》の真ん中で、大きな桃色《ももいろ》に出会《でくわ》した。目を凝《こ》らすと、色の塊《かたまり》が変形した。  いつもの看護師さんだった。何故《なぜ》か、グワシをしている。「トランスさんだ」 「キミはあたしをそう呼んでたのかよ」  心を包み隠《かく》す余裕《よゆう》もなくなってきている。 「それはさておミ隊頒と男前になっちやって。生きてる?」  手を鼻先で振《ふ》られて、去《さ》り際《ぎわ》に中指の爪《つめ》で弾《はじ》かれた。 「なんとか」  暢気《のんき》な会話をしてる場合じゃないんだ。ええと……駄目《だめ》だ、頭に回る手筈《てはず》の血がこめかみと唇《くちびる》から流出して行き届いてない。ぜんっぜん、頭が働かない。  大体、流血|沙汰《ざた》の僕の面を鷹揚《おうよう》に『みる』して、この看護師は何を考えているのか。  多分、どうでもいいけど面倒《めんどう》事になるのはやーねーとか、そんな感じか。  ……あー、けどもういいや。この人に頼《たよ》ろう。死にそうだし。 「すいません、助けてくれます?」 「んー」  渋《しぶ》りやがった。空気の読み込み機能が故障《こしょう》しているとしか思えない。 「何から?」  何とも意味深に、哲学《てつがく》に溢《あふ》れてそうな(本人の意図は別として)疑問だった。  僕もその雰囲気《ふんいき》に飲まれ、口元が歪《ゆが》んでしまう。その際、伝う血を口内に取り込んだ。  ……何から、ねぇ。  色々あるなぁ。  でも、自分で何とかしないといけないことばかりだから。  自業自得《じこうじとく》だから。 「今は、目の前を垂れる赤色からですね」 「ふむ、その血が示す危険から撤退《てったい》しなければならかったと」 「また一世代古いネタをご存《ぞん》じで」 「さ、お乗りなさい」  看護師さんが屈《かが》み、背中を開放する。僕を運搬《うんぱん》出来る、可能性はあるか。空手とかやってるんだったよな、この人。  素直《すなお》に負ぶさる。僕の右足は掴《つか》めないから、かなり不格好な姿勢になる。けれど、看護師さんは悠々《ゆうゆう》と背筋を伸ばし、不敵に微笑《ほほえ》んでいた。 「意外とちっさいねー」 「小食ですから」 「いや心が」大きなお世話だ。 「お客さん、何処《どこ》行きやすか?」 「……言うのもマヌケですけど、治療《ちりょう》室に」 「そうっすか。最近不景気なんですかねぇ、駅の周辺にしか」「仕事しろ」  看護師さんは「目上の人間に……」と愚痴《ぐち》をこぼしながら急発進し「うわっ!」  急すぎた。  韋駄天《いだてん》すぎた。  看護師さんは、僕の定めた法定内速度を軽くブッちぎる快速だった。  廊下《ろうか》は走るなのポスター、そして僕という荷物の存在を消し飛ばす勢いで床《ゆか》を踏《ふ》み潰《つぶ》し、階段は五、六段を軽々と飛び降り、外から内へ速度を減退させずに踊《おど》り場《ば》を曲がり抜《ぬ》く。 「くぉ、壁《かべ》にぶつかる削《けず》れる! ブレーキは何処だ!」 「アクセルを全開アクセルを全開インド人を右にぃぃぃぃー」  救助どころか、生きた心地を更《さら》に磨《す》り減らされた。  中央病棟《びようとう》まで走り抜け、息の乱れもない看護師さんは一旦《いつにん》、徐行《じょこう》運転になる。 「よく分かんないけど、危機は去った、いや危機から去ったかな?」 「過去形でいいんでしょうか」  方向性が違《ちが》えど、依然《いぜん》として危険人物が側《そば》にいるのですが。 「キミだって危なそうな面構《つらがま》えしてるように、おねーさんは感じちゃうけど」  そりゃあまあ、血を流してるのに「危なくないです」と笑顔《えがお》を振《ふ》りまいていたらそいつが危険人物だしな。血液の流出は、どんな形であれ危機を孕《はら》んでいるだろう。  看護師さんが移動を再開する傍《かたわ》ら、僕に尋《たず》ね事をしてくる。 「キミ、何したのさ? つーか、暴行事件?」 「お爺《じい》さんが、食事量の少なさに一人|一揆《いっき》を起こしたんですよ」 「お爺さんって、キミのお隣《となり》さんの度会《わたらい》さん?」 「ええ」  ……爺さんと言っただけで、即座《そくざ》に度会さんの名をあげるか。 「度会さんかぁ。あの人、キミの彼女の傷害事件と関係とかあるの?」 「さあ……」  僕がはぐらかしているあたりで、別の看護師さんが廊下《ろうか》の正面から歩いてきた。  赤い患者《かんじゃ》である僕に、口を半開きにして驚《おどろ》いてくれる。 「この患者の治療《ちりょう》と、頭部の検査の準備を伝達してくれる?」  僕を背負った看護師さんが速《すみ》やかに要項《ようこう》を伝え、同僚《どうりょう》の方が駆《か》け出す。普段《ふだん》の性格からは見聞きし辛《づら》い生真面目《きまじめ》な対応で、螺子《ねじ》の外れた修飾抜《しゅうしょくぬ》きなことに僕は手軽な賞賛をした。 「仕事、意外に真面目なんですね」 「うむ、必殺が付くぐらいの仕事人である」  なるほど、病院では出世の見込みがないわけだ。 「あ、血が……」  派手に上下に揺《ゆ》さぶられた所為《せい》で、僕の流血が看護師さんの衣服にも降りかかっていた。 「ん、首のやつはキミの血か。涎《よだれ》と決めつけてたよ」 「すいません、汚《よご》して」 「ま、偶《たま》にはいんでねーかー」  いいのか。  看護師さんは唇《くちびる》と頬肉《ほおにく》を微妙《びみょう》に歪曲《わいきょく》させて、「いいんだよ」と心中を読んだように返事する。 「身体《からだ》を無理して離《はな》そうとしないでいいよ。キミの体液は溶解《ようかい》作用でもあんの?」 「そうじゃないですけど……」 「それともあれか、人に触《ふ》れるの嫌《きら》いな性格?」 「……そうじゃ、ない、ですけど」  触れられるのが、少し怖《こわ》いだけ。  薄《うす》い蛍光灯《けいこうとう》の下で、看護師さんは垂《た》れた血を指で拭《ぬぐ》い取った。 「気にしない」と、看護師さんはもう一度頬を曲げる。 「血なんて、洗い落とせばいい」  気合と洗濯《せんたく》機に頼《たよ》ってさー、と砕《くだ》けた締《し》めくくりで真面目をピンぼけさせる。 「あれ、今のはカッチョイイ台詞《せりふ》じゃなかった?」  反応がなかったことに不満そうに、看護師さんが収束した唇《くちびる》で追及《ついきゅう》してくる。  僕は、首に回している手の強張《こわば》りをほぐしながら、「ありがとう」と伝えた。  看護師さんは、「んむ」と適当に反応する。  それから、疲労《ひろう》で感覚の歪《ゆが》んでいる身体《からだ》を、全《すべ》て任せた。  それでも、赤い水の降り注いだ背中は不屈《ふくつ》に僕を支えてくれた。  頭部にしこたま椅子《いす》の雨が降ったことは大事として、看護師さんの指示通りに、その日の深夜に精密検査を行うことになった。  その準備を待つ間、看護師さんはガーゼに消毒、塗《ぬ》り薬《ぐすり》とハサミを持ち出してきた。 「ではこれよりお医者さんごっこを開始します」 「その発言、なんかずれてます」  何処《どこ》がどうと言い表せないんだけど、何かが歪《ゆが》んでる。  ハサミの開閉を無意味に繰《く》り返す看護師さんに不安を抱《いに》きながらも、治療《ちりょう》は施《ほどこ》されていく。 「あの、薬を塗《ぬ》りたくって染《し》み渡《わた》らせる必要はないと思うんですけど、痛い凄《すご》く痛い」 「何を言う、汗疹《あせも》だって塩を擦《す》り込むでしょ」 「因果関係のある話を……って、ガーゼを貼《は》ってから切らないでください!」 「男の子でしょ? ちょっとぐらい我慢《がまん》なさい」 「そういう男尊女卑《だんそんじょひ》を裏返しに利用した発言はどうかと思いますよ!」 「やーねー、吃驚《びっくり》マーク使いすぎだわさ。キミはそういうキャラ違うでしょ」 「あんたホントに看護師免許持ってます?」 「ブラックジャック先生だって無免許《めんきょ》でいたかったわけじゃないのにー!」 「手を震《ふる》わせないでください!」  やはり危険を過去形にするのは早すぎた。  ガーゼの切り取りが終わり、医務室はやっと静かになる。  治療費の代価に、心の安定を奪《うば》われて意気|消沈《しょうちん》してる僕。  それを後目《しりめ》に、ハサミの指輪《しりん》に指を通し、ご機嫌《きげん》に回転させる看護師さん。 「ほらアッシはさー、過程より結果を重視する性格だから」  横着という二文字で済ませばいいのに。吐《は》き出しても効果はないので、心中で毒づいた。  というか、同室で佇《たたず》んでいるお医者様は何故《なぜ》、僕らを冷静に鑑賞《かんしょう》していますか。  その後、僕のピーマン頭部は綿密な検査をされて、思想と思惟《しい》と思考以外は中身に異常なしと診断《しんだん》された。ただ、頭皮は身近な天から人為《じんい》的に降り注いだ阻石《いんせき》によって地割れが生じ、その落下地点は古傷のある場所にほど近かった。その傷は、新参者の経緯《いきさつ》や纏《まと》う願いを認めて仲良くやっていけるだろうか。無関心な隣人《りんじん》同士なら及第《きゅうだい》点だけど、いがみ合いが勃発《ぼっぱつ》したら嫌《いや》だなと、とち狂《ぐる》ってみた。傷の所為《せい》にしておいた。  度会《わたらい》さんが傷害罪を名目にカツ井《どん》を食べる会へ連れ出された、翌日の午後九時半すぎ。  マユの寝顔《ねがお》という芸術に感性その他を刺激《しげき》されていた僕の下《もと》へ、来客があった。  仕事の手際《てぎわ》以外は快速の看護師さんである。勤務明けなのか、私服だった。 「ちょっとお話でもしようか」  珍《めずら》しく、真っ当な日本語でお誘《さそ》いをかけてきたので、僕はそれを謹《つつし》んでお受けした。  看護師さんに招かれたのは、暗色《あんしょく》に染まった面会室だった。  明かりを点《つ》け、暖房《だんぼう》を入れて僕をソファに設置し、外へ出ていった。  そして五分ぐらい経《た》ち、何処《どこ》からか湯気立つカップを二つ調達して帰還《きかん》して、一つを僕に差し出す。頭を下げながら受け取ると、中身は白湯《さゆ》だった。手の平が焼き付きそうな熱湯だった。 「お、当たりを引いたご様子で」  看護師さんはもう一つの、緑色のカップを取り、中身を銀のスプーンでかき混ぜながら僕の向かい側《がわ》のソファに、ふんぞり返るように腰《こし》かける。足など、テーブルの上が指定席である。 「中身|一緒《いっしょ》じゃないんですか?」 「アチキはコーンスープ」  なにチャカチャカ混ぜてやがるこの女郎《めろう》。 「ん? なんだなんだそのいやしんぼの目は。チミはモロコシが嫌《きら》いじゃなかったきゃい?」  粘着《ねんちゃく》質な目線と、嫌《いや》みったらしい口端《こうたん》の歪《ゆが》みと、ハスキーな猫撫《ねこな》で声が絶妙《ぜつみょう》に合わさって僕の気分を著《いちじる》しく阻害《そがい》した。  ぐ、と喉仏《のどぼとけ》のあたりで空気が詰《つ》まる。そんなことを覚えてたのか。  そう言われては、僕も黙《だま》って受け入れるしかない。  看護師さんは勝利の味と誇《ほこ》らんばかりに、余裕紳々《よゆうしゃくしゃく》で黄色い液体を啜《すす》る。 「昨日の話聞いたけどさ、キミはどれだけ虚弱《きょじゃく》なわけよ。相手老人よ? おじーちゃんよ?昼ご飯食べたのに光子《みつこ》さんにねだっちゃうのよ? 痛み分けなのは高校生としてどーよ」  机の上でスリッパを揺《ゆ》らす足の爪先《つまさき》を僕に向け、駄目《だめ》だしをしてくる。 「地球のみんなが僕に元気を出し渋《しぶ》ってしまって」 「ガクセーが社会人から精気を貰《もら》おうとすんなよ」  ねちっこい言い方で社会の不良歯車に非難された。  それから「ま、とにかく」と看護師さんが前置きして、 「君もうちの道場で空手パンチと空手キックを会得《えとく》なさい。月謝は二ヶ月まで滞納《たいのう》可」 「僕の流派は通信空手ですので」 「ちなみに可といっても優、良の次点だから褒《ほ》められたものじゃないわさ」 「大学の単位じゃないんですから」  一体、何の話をしたいんだこの人。軟弱《なんじゃく》な若者を憂《うれ》う会の推進《すいしん》運動か? 「一つ確認《かくにん》しますけど、本題とかあります?」 「あるともさ」  その適当な言い方が不安を煽《あお》ることを、自覚してるんだろうな。 「昨日聞きそびれたんだけど、度会《わたらい》さんって失踪《しっそう》事件か傷害事件、どっちかの犯人なの?」  看護師さんが身を乗り出して、興味津々《しんしん》に問いただしてくる。 「少なくとも僕は傷害を負いましたけどね」 「うんまーなるほど」何とも大雑把《おおざっぱ》に流された。「で、失踪事件の方は?」 「僕にそれを尋《たず》ねること自体に、まず疑問とか覚えません?」 「だってさ、キミって度会さんを粘々《ねばねば》しい態度で苛《いじ》めてたって聞いたよ。しかも女の子がどうたらとか話してたらしいし。こりゃーなんか後ろ暗いところが度会さんにあるでしょと」  看護師さんが、多少得意気に情報を披露《ひろう》する。高校生か中年、どちらから聞き出したのやら。 「確かに老人|虐待《ぎゃくたい》はしましたけど、それはまた別のお話ってやつですよ」  嘘《うモ》だけど。その言葉はお湯に口を浸《ひた》し、泡《あわ》となって看護師さんには届かなかった。 「マジでー」と若干《じゃっかん》、乾いた態度で看護師さんが唇《くちびる》を尖《とが》らす。 「残念そうですね。何か他《ほか》に確信でもありました?」 「んー、ないけどさ。期待が萎《しぼ》んだ感じ」  身を引き、背もたれを活用する姿勢に戻《もど》る看護師さん。  このまま、会話が収束されるのを待つか。  けど、この人には理解させておかないと駄目《だめ》だ。念を入れて、後腐《あとくさ》れない為《ため》に。  マユの、為に。 「僕から一つ言えることはですね」 「うんうん」と、また身体《からだ》の重心が前へ傾《かたむ》く看護師さん。その人に、宣言通り一言。 「マユは何の犯人でもありませんから」  僕が明かした一つの事実に、看護師さんは自然に瞬《まばた》きする。 「別にキミの彼女は疑ってませんなー」と空とぼける看護師さん。 「嘘はつくなら、面白《おもしろ》味か真実味、どちらかを際立《きわだ》たせた方が良いですよ。それで、僕からも一つ尋《たず》ね返しますけど」  看護師さんが「うん?」と平常な姿勢て質疑に臨《のぞ》む。 「あなたがマユを付《つ》け狙《ねら》う理由、美貌《びぼう》に目がくらんだ以外で僕を納得《なっとく》させてくれますか」  出題した問題は正直、僕には模範《もはん》解答を導き出せそうになかった。  そのような難問について一考の間を取って、看護師さんが唇を動かす。 「濡《ぬ》れ衣《ぎね》べったりされてる? キミの彼女の頭|遣《つか》って新春|餅《もち》つきの練習なんかしてないわよアタチ」 「そっちじゃないですよ。マユの食事に毒物を仕込んだ理由です」 「んん?」  看護師さんが疑問|符《ふ》を首の角度と瞼《まぶた》の開き具合で表す。 「キミは何を言い出しとるのかね?」 「それと関連しますけど、あなたは名和三秋《なわみつあき》の死体|版《ばん》を目撃《もくげき》したんじゃないですか?」 「んきゅー?」と喉仏《のどぼとけ》を潰《つぶ》したくなる疑問系の声をあげる看護師さん。 「度会《わたらい》さんの体調が急変した原因は、マユの残した食事を摂取《せっしゅ》したから。最初は調理師かと思いましたけど、料理の載《の》ったトレイを相手に指定できるのは配膳《はいぜん》する人間だけですからね、あなただと理解できました」  だから、マユがこの人を毛嫌《けぎら》いしていたわけだ。本能が、聡明《そうめい》を上回ってる子だな。 「あなたが名和三秋を見つけた際、同様の場所でマユを目撃したから。だから早合点《はやがてん》して犯人|扱《あつか》いで、そんな仕打ちを行ったんですか?」 「何のことやらさっぱりですな」  看護師さんが肩を竦《すく》める。僕も、肩身《かたみ》ではないが目を細める。 「僕は警察のおねえさんと大の仲良しなんですけどね」  むしろ太の仲ですたい。翻訳《ほんやく》家を雇《やと》いたいほど意味分からんけど。  看護師さんは、僕が日頃《ひごろ》お世謡になっていそうな無表情|面《づら》で、唾《つば》を飲み込む。 「取り調べ内容を警察の人から報告されるより、本人の口から語ってもらう方が僕としても面倒《めんどう》事が少なくていいんです」ミスジェロニモと公的に面会しなくて済むからな。「だから、今この場で話してくれれば、警察と電波の繋《つな》げ合いはしません」  嘘《うそ》だけど。仮に黙秘《もくひ》しても、僕は密告者の役目を負う気はない。  沈思黙考《ちんしもっこう》なのか、単に狸寝入《たぬきね》りを試しているのか看護師さんが手の平で顔面を保護し、ギアをPに入れて挙動を静める。  僕は時間の経過を忘れたように、温度を保つ湯の水面を揺《ゆ》らして、両方の変化を待った。  ……その兆候《ちょうこう》が、退屈《たいくつ》が全身を侵《おか》し尽《つ》くすより早かったのは僥倖《ぎょうこう》だった。  看護師さんの長大な溜息《ためいき》が、両手の隙間《すきま》からはみ出る。  そして手が表皮から取り除かれ、目線の位置が水平になった。 「あは、やっぱりバレてた」  前言の存在自体を消失させ、看護師さんは悪びれも悪あがきもなく、ごまかしも虚飾《きょしょく》もなく国家権力のちらつきに屈《くっ》したように、目元だけ無邪気《むじゃ》に微笑《ほほえ》んだ。  ……やっぱり、この人が。 「あなたが真犯人だったんですね、どぎゃーん」 「マイルドに言わせてもらうけどデスれ」  違《ちが》ったようだ。認《みと》めたら、それはそれで問題に発展するけど。 「死体、見ましたよね?」 「うん」と、そちらも肯定《こうてい》する。 「その時に、生きてる女の子も一人見かけたんですよね」 「そうそう。あたしが深夜まで、仕事に従事して俳徊《はいかい》してたわけ。そしたら一人の女の子がてけてけと旧|病棟《びょうとう》の二階を歩いてるのを目撃《もくげき》しちゃったわけよ」 「……なるほど。やっぱりその女の子が、マユだったわけだ」 「そうそう、キミのバカノジョ」 「失敬な。マユは僕といなければそれは聡明《そうめい》な才女ですよ」 「つまりキミがバカレシすぎるわけね」 「そっちなら許容|範囲《はんい》です」 「キミはよーわからん男の子だな。で、話を戻《もど》すけど、事件の香《かお》りに釣《つ》られて職務|放棄《ほうき》して、キミのカノジョが帰ったのを見計って覗《のぞ》いてみれば名和三秋《なわみつあき》が冷蔵庫の肥やしになってるじゃないの。アチシぶったまげたわよ」  手を広げ、爆発《ばくはつ》を表現する。今なら隙《すき》だらけだ、と何故《なぜ》か攻《せ》め入る瞬間《しゅんかん》を想像してしまった。 「だから、名和三秋の命を大特価で買い取り、肉を冷蔵庫にしまい込んだ犯入をマユと勘違《かんちが》いしたわけですね、はた迷惑《めいわく》にも。そして、毒入り料理を振《ふ》る舞《ま》った、と」 「うむうむ。うーむうむうむ」  一樹《いつき》のような調子で、ごまかしの靄《もや》をかけるように忙《せわ》しない看護師さん。 「うむうむさてさて、次の話題に移りましょう。名刺《めいし》で割《わ》り箸《ばし》を切る方法とか話しちゃう?」  何故か揉《も》み手《で》をしたり、肩《かた》の凝《こ》りを取る為《ため》に派手に身体《からだ》を揺《ゆ》さぶったりしている。マユに対しての誤解を恥《は》じ、話題にのぼらせたくないと防衛しているのかも知れない。  僕は「どうしようかなー」と焦《じ》らして、熱湯を啜《すす》り、更《さら》に相手の出方を待つ。 「身体温かくして寝《ね》なさい。さらば」看護師は逃《に》げ出した。「待てや」  本気で帰宅しようとする看護師を言葉で押し留《とど》め(肩に手をかけようものなら関節を決められそうだったので)、お湯を啜って心を落ち着かせる。舌どころか食道まで火傷《やけど》しそうだ。 「困っちゃうなあ、おねーさんが患者《かんじゃ》に唾《つば》つけてるなんて噂《うわさ》立ったら旦那《だんな》に怒《おこ》られちゃう」 「既婚《きこん》者だったんですか」  ちょっと驚《おどろ》き。家庭を持っても落ち着かない人だっているわけだ。 「うむ。デリシャスな四|歳《さい》の息子《むすこ》もいた」  ……あの、それ、褒《ほ》め言葉だけど駄目《だめ》です。凄《すご》く駄目です。  それに過去形。 「ん? 何で過去形かって?」 「空耳《そらみみ》相手に質問コーナー設けないでください」  でも聞き耳は立つ。 「離婚《りこん》したからね、半年ぐらい前に。息子《むすこ》はとーちゃんを選んだし、今は完全に独《ひと》り身《み》」 「……え、じゃあ旦那《だんな》さんは別に怒《おこ》らないのではないかと」 「妻としてじゃなくて人として。潔癖症《けっぺきしょう》な人で、そこがいいなって結婚前はメロメロだったの」 「結婚後は?」 「でー、なんだっけ?」  爽《さわ》やかに強引すぎる飛ばし方だった。でも、この人相手に粘菌《ねんきん》な態度で接すると拳《こぶし》で振《ふ》り払《はら》われそうなので、尻尾《しっぽ》を巻いて日和《ひよ》る。 「犯人はお前だ、のところでCM挟《はさ》んで、今開けで止まってます」 「あそう。んー、まあ、って認めたじゃん」 「そうでしたね。じゃあ、なんでそんなことをしたんですか?」  社会見学系の質問台詞《ぜりふ》に、看護師さんは頬《ほお》を掻《か》きながらも唇《くちびる》を割った。 「あたしって正義感から生まれた正義|花子《はなこ》だからさー、警察に引き渡《わた》す前に懲《こ》らしめてやろうとしたの。名和《なわ》、っていうか三秋《みつあき》はさ、あたしと仲良かったのさ。だから、個人的に一矢報《いっしむく》いる必要があったわけ、だって捕《つか》まったら、あたしの手で懲らしめられないっしょ」 「……そうだったんですか」  つまり、(生前限定で)美人中学生である名和さんも、変人だった可能性が高いわけだな。 「それと、月見料を支払《しはら》う為《ため》でもある」付け加えた少々難解な理由で僕を困惑《こんわく》させながら、勝ち気な指先が引っ込み、お手上げの証《あかし》として万歳《ばんざい》する。「けどさー、全然食べないでやんの。コーンサラダに漬《つ》け物《もの》に味噌汁《みそしる》に紅鮭《べにざけ》、全部回避《かいひ》したわけでしょ」  選択《せんたく》した料理と現代っ子の嗜好《しこう》が噛《か》み合っていない気もする。 「お陰《かげ》で警察に連絡するの延期に延期を重ねて、もーやめたって感じ」  なんで毒入りのやつが分かるのさ、と看護師さんが霊能力を猜疑《さいぎ》するような態度で問いかけてくる。  それについて、僕は肩肘《かたひじ》をほんの少しだけ強張《こわば》らせて回答した。 「肌《はだ》が覚えてるんでしょうね。僕も、マユも」  昔、たんと食べさせられたから。  入ってると学習しても、それしか口に出来なかったから。  看護師さんは僕の履歴《りれき》を閲覧《えつらん》していない為か、異質な存在を初見したように瞬《まばた》きを繰《く》り返す。  けれど人情味か無関心か、看護師さんは踏《ふ》み込まずに「そうなんだ」と流した。 「けど意外」 「なにがですか?」 「キミはもっと激しく、極端《きょくたん》な話この場であたしを撲殺《ぼくさつ》しても不思議じゃないほどカノジョを宝物にしてるように見えるけど、妙《みょう》に落ち着いてるから」  嵐《あらし》の前の静けさ? と僕を揶揄《やゆ》しながら牽制《けんせい》する。  確かに、恩義がなければ報復に踏《ふ》み切っていた。 「残念だけど、あなたを本気で敵視して、怒《いか》りをぶつけることは出来ないんですよ」 「美貌《びぼう》の弊害《へいがい》ってやつね」 「誰も備忘録《びぼうろく》の話なんかしてませんよ。……あなたの盛った薬。食べ残しを許可しない勿体《もったい》ないお化けの見えざる活躍《かつやく》による結果論としても、僕が度会《わたらい》さんに服薬させてしまっていた事実を利用してあの人を追い詰《つ》めることが出来たし、何より殺されないで済んだ。心身共に弱ってなかったら、昨晩に僕は頭蓋骨《ずがいこつ》ぶち割られて死んでいたでしょうから」  つまり、結果的には事件解決に関与《かんよ》していた功労者となる。  そして僕の悪運は、やはり効力を発揮《はっき》していたのだ。物事を万事滞《とどこお》りなく進めることは、今回も不可能だったけれど。  看護師さんは自分の悪意|溢《あふ》れる功績を讃《たた》えられたことで増長し、顎《あご》に手をやる。 「親ジャンル開拓《かいたく》、毒薬美婦人|探偵《たんてい》なんてどーよ」 「いいですね、略して毒婦」 「敬えー!」  机を飛び越《こ》え、僕の隣《となり》に着地して首根っこを「あうあうあう」と揺《ゆ》さぶってくる。  大体、美婦人ってなんだ。カタカナにすると薬品名みたいな造語使いやがって。  一頻《ひとしき》り首の運動を強制され、包帯で雪景色《ゆきげしき》を演出している頭が霞《かすみ》がかった。  理不尽《りふじん》な制裁を終えた看護師さんは、そのまま隣人《りんじん》として席|替《が》えをしてしまった。圧迫《あっぱく》感が生まれるので、正直お帰り願いたい。 「でも、ま、敬うのはちょっと難しいよね。ごめんね」  遅咲《おそざ》きに殊勝《しゅしょう》な姿勢で頭を下げる看護師さん。 「毒を盛る相手を間違《まちが》えたのはあたしの反省点。猛省《もうせい》」  二度ほど、猫背《ねこぜ》を形作って頭部を上下させる毒婦。 「というわけで、この件は手打ちということで……でさ、度会の爺《じい》さんが殺人犯だったわけですか」  自己反省に基づき、一方的に第一部・完と写植してから、僕の肩《かた》に馴《な》れ馴《な》れしく肘《ひじ》をかける。 「そんなこと知りたいんですか?」 「そりゃあねぇ、影《かげ》の総婦長として、アタシの庭で起きた事件は把握《はあく》しておく必要があるのよ」  単なるミステリ好きの野次馬《やじうま》としか思えないけど。 「それに、三秋《みつあき》の人生が終わった過程を知っておきたいし。あいつの墓が出来て訪問した時、話の種になるっしよ」  ……まあ、いいか。 「度会《わたらい》さんが犯人……それが望ましいですね」  看護師さんが、僕の持って回った言い方に首その他を傾《かたむ》ける。すぐに切り返して首を立てる。 「なんで目星を付けたの?」 「勘《かん》、じゃ駄目《だめ》ですか」 「探偵《たんてい》役がそれじゃあ、ちょっと頼《たよ》りないかな」  いつの間に、僕にそんな役割が騨えられていたのか。探偵ごっこは未《いま》だもって継続《けいぞく》中なのか。 「死体の指紋《しもん》を調べれば、度会さんを容疑者にあげることはお手軽だったんですけどね」  ちょっと愚痴《ぐち》ってから、「決定的な証拠《しょうこ》はないわけですが」と前置きし、 「最初に疑ったのは足、ですね」 「水虫け?」 「あなたは自分の頭の虫をどうにかしてください。何日前だったかな、マユから聞いて僕たちは旧|病棟《びょうとう》へ死体を見学に行ったんですよ。その時、他《ほか》にもう一人、誰《だれ》かが死体のお宅訪問をしたんです」 「それが度会さんだってーの?」 「そゆことです。見学が終わってから、そのままコンビニへ行ったんですよ。そこで見かけた人達は皆《みな》、サンダルだったりスリッパのまま外出する不届き者ばかりだったんですけど、度会さんだけは普段《ふだん》の便所サンダルと違《ちが》って小綺麗《こぎれい》な靴《くつ》を履《は》いていたんです。だから妙《みょう》だと感じた」  旧病棟は足下《あしもと》が危険だから、その為《ため》じゃないかと疑った。僕らと同じく。 「後は、度会さんの持病を知ってたというのもありますね」 「夜尿症《やにょうしょう》?」 「そんなところだけ現実的な発想はやめてください。ストーカーですよ」 「マジでか。どーりで最近、アタチの背後に視線が突《つ》き刺《さ》さると思ってただわさ」 「借金取りに追われる生活なんて不憫《ふびん》ですね。あの人は度々《たびたび》、孫、ああ長瀬一樹のことですけど、様子を窺《うかが》いに行ってたんですよ。特に夜は、寝顔《ねがお》とか毎晩|眺《なが》めに行ってたみたいですね」  コンビニに行くだの、嫁に会うだの稚拙《ちせつ》なカムフラージュして西棟行って。 「キモッ」  看護師さんの正直に辛辣《しんらつ》な意見。 「祖父《じい》さんだろーと親族だろーと、ストーカー法に掃《は》き捨てられちまえ」  随分《ずいぶん》と過剰《かじょう》に憎々《にくにく》しい声音《こわね》で、孫を一目見ていただけの祖父を拒絶《きょぜつ》する。 「ストーカー被害《ひがい》に遭《あ》われたことでも?」 「ない。でもあたし、しつこい奴嫌《やつきら》いなの」 「ああ、だから潔癖症《けっぺきしょう》の旦那《だんな》さんですか」 「ハッ、潔癖に粘《ねば》ついてたんだよあの男はさ。どうでもいいっての」  僕の脇腹《わきばら》を小突《こづ》いてきた。多少の痛みはあったけど、人の傷に触《ふ》れておいてそれだけなら安価だ。 「というわけで、度会《わたらい》さんを嫌疑《けんぎ》しまくったわけです」 「中略すな」 「夜に一樹《いつき》の病室へ行ってる、ということは名和三秋《なわみつあき》と接触《せっしょく》する可能性や時間が十分にあるってことですから」  それに対し、看護師さんは髪《かみ》を指で摘《つま》みながら、曖昧《あいまい》に唸《うな》る。 「まーそれはいいとしても……不自然なことがあるんだけど」 「なんですか?」 「なんで度会さんは、死体のとこなんかに遊びに行ってたの?」  あー、それですか。  僕にとっても悩《なや》みの種だったんだよな。 「本人から答えを提示してもらった方が確実なんですけど……多分、謝《あやま》りに行ってたんじゃないかって、今は考えてます」 「謝罪? 誰《だれ》によ」 「名和三秋に、許しを請《こ》うてたんじゃないかって。死体を埋葬《まいそう》してすぐ、原因不明の体調不良。安定を欠いていた心が呪《のろ》いと受け取ってしまっても臆病《おくびょう》者と恥《は》じれませんよ」  そして、度会さんは腐乱《ふらん》始めの死体を拝みに行き、結果として僕に疑われるようになった。  その日に長瀬《ながせ》からノートを借り受けなければ、僕たちはコンビニには行かなかったはずで。  孫の行動が聞接的に、度会さんの精神を快《えぐ》る要因となった。こういうのを皮肉といいます。 「後は嫌《いや》がらせして追い詰《つ》めて後押しして。昨日、度会さん自身がようやく決意と共に行動に出てくれて、それが証拠《しょうこ》になったわけです」  あそこまで意気|軒昂《けんこう》に吹《ふ》き返すとは、予想していなかった、というか結果については深く考えてなかっただけだ。  看護師さんは「へぇー」ともっともらしく感嘆《かんたん》の息を吐《は》きながら、その途中《とちゅう》で疑問点を発見したようだ。遊泳していた目が僕を向く。 「ん? つーことはキミ、度会さんを犯人と分かってない時期から、あの人があたしの手料理を味わうことを止めなかったってこと?」 「穿《うが》って見ればそうとも言えますね」 「普通《ふつう》に見ないとそうならないっつの。涼《すず》しい顔して酷《ひど》い子だなー」 「止めようがないじゃないですか、食べ物が勿体《もったい》ない、残すなっていう正しい主張を覆《くつが》す論法もなかったし。毒入ってますよと騒《さわ》ぐわけにもいかないでしょう」  警察|沙汰《ざた》になってマユが取り調べられるのも防ぎたかったわけで。  それにここは坂下《さかした》先生の一族が経営する病院なのだから、悪評を立てるわけにもいかない。義理と人情に厚い地元っ子の僕としては、受けた恩を仇《あだ》で返す真似《まね》はあまり出来ない。  毒味役は、本当は高校生に一任したい役柄《やくがら》だったけど、運命の悪戯《いたずら》でベッドが対角線上にあったし、何よりマユのお願いを彼の協力で叶《かな》えたくはなかった、と個人的なこだわりもある。 「ああそれと、さっきも話しましたけど、僕は警察に知り合いがいるんですよ」 「うん?」 「次にマユへの危害を与《あた》える意志を見せた場合には、遠慮《えんりょ》なく通報しますから」  簡単な警告は、看護師さんに「へーへー」と単純に受理される。 「で、度会《わたらい》さんの動機は? 婦女暴行?」 「それも捨て難《がた》いですね」  否定の出来る材料が、僕の手元にはない。  看護師さんは、「キミはどう考えてるわけ?」と質問しながら、僕の放置していた白湯《さゆ》を取り、喉《のど》に流し込む。間接キスだって祭り上げるのは、長瀬《ながせ》には有効だった。殴《なぐ》られたけど。 「それを説明するには、別の要件が絡《から》んでくるんです」 「じらし上手《じょうず》め、続けて」 「名和三秋《なわみつあき》の松葉杖《まつばづえ》が病室に残されていたこと」 「あーそれ、警察の人も疑問視してるよね。失踪だろうと誘拐だろうと殺人だろうと、何で置いてあるのかって」 「事情に精通してる人間からすると、結構単純なことだと思うんです。確証ないですけど、一樹《いつき》が持ち帰ったんですよ」  看護師さんの驚《おどろ》きを、瞼《まぶた》が一手に引き受ける。十六連射は無理でも、秒間五回に迫《せま》る速度の瞬《まばた》き。ここで、お弟子さんの名前が出ることは、事故に近いんだろう。 「一樹も関係してるわけ?」 「真犯人です」  弱々しい根拠《こんきょ》しかなくても断言するのは得意だった。  頭も尾《お》も隠《かく》していない狼狽《ろうばい》に惑《まど》わされながら、看護師さんは反論する。 「度会さんと一樹、孫と祖父以上に関係してるわけ?」 「死体を制作したのは一樹で、出荷したのが度会さんです」  もっとも、一樹は度会さんの存在に未《いま》だ気付いていないはず。  困惑《こんわく》し、沈黙《ちんもく》の状態異常を発生させた看護師さんに、僕は語りかける。 「名和三秋の死因を三つあげてみよう。ちゃんと全体を見るのが大事だよ」 「あんまり詳しく見てないけど、こめかみの傷かな」  沈黙《ちんもく》を自然解除した看護師さんに、僕の質問は気持ちよく無視された。 「僕もそう思います。あれは、階段からの転落死によるものじゃないかなって」 「……階段? ほー、字面《じづら》にすれば病院の階段ね。映画化できそう」  初登場の場所と凶器《きょうき》に、看護師さんが瞳《ひとみ》を収縮《しゅうしゅく》させる。 「一樹のことは、あなたの方が既知《きち》ですよね」 「足の魚の目から頭皮の艶《つや》具合まで知り尽《つ》くしてるわさ」それ、世間ではストーカーといいます。 「たとえば、夜は一人でトイレに行けないこと。それと、一樹《いつき》の癖《くせ》、ご存じですか」 「癖……あー、あれね。すぐ人にじゃれて飛びつくやつ。それにトイレ……んー、つまり、名和三秋《なわみつあき》と一樹がトイレ一緒《いっしょ》に行って、その途中《とちゅう》にある階段前あたりで一樹が普段《ふだん》通りに体当たりして、その弾《はず》みに名和三秋が転げ落ちたー、ってこと?」 「そんな感じじゃないかと、登場人物の許可なく想像してます」 「ふーん」と、看護師さんはあまり納得《なっとく》していない模様だった。  僕はもう少し、説明で補足する。 「見学の時に調べたんですけど、名和三秋の背面に横長の癒《あざ》がいくつもあったんですよ。最初は、犯人が猟奇趣味《りゅうきしゅみ》で人聞ピアノでも作製する気だったのかと勘繰《かんぐ》ったんですけど、現場では苛《いじ》めないって、寂《さび》しがりやで忘れん坊の殺人鬼が切に訴《うった》えてたのを思い出しまして。実際リスクが伴《ともな》うし、褒《ほ》められない趣味《しゅみ》は人目を避《さ》けた場所で、猫背《ねこぜ》に楽しむものです」  でも、と接続する。 「旧|病棟《びょうとう》の床《ゆか》はささくれ立っていたし、硝子《がらず》の破片も散らばっていた。もし殴打《おうだ》されたら身体《からだ》の正面に小さい擦《す》り傷の一つか二つは出来てると思ったんですよ。実際は何もなかったけれど」 「だから、階段から背中を向けて落ちたと?」 「まあ、憶測《おくそく》ですけど」 「ふぅん」と、先程《さきほど》と比べ、僅《わず》かに差異のある溜息《ためいき》を吐《は》く看護師さん。 「名和三秋が松葉杖《まつばづえ》を使用せず外出したっていうなら話は別なんですけど。なんでも彼女は、まだ反抗期を迎《むか》えていない中学生だったそうなので、医者の言いつけは守ったでしょう」  それに、ここ数日、同室のお婆《ばあ》さんに聞き込み調査をして、彼女が松葉杖フリークであることは証言してもらった。手にも、使い込んだ証《あかし》であるマメがあったし。 「名和三秋を運搬《うんぱん》する度会《わたらい》さんをマユが目撃《もくげき》した時点で、松葉杖は所持していなかった。現場にあったのなら、絶対に処理するはずのものなのに。でも、松葉杖は翌日、病室にあった。看護師さん達がいつ巡回に来るか、切迫《せっぱく》してる状況《じょうきょう》で度会さんが死体を置き去りにして杖《つえ》だけ返却《へんきゃく》に行った、とは考え辛《づら》いなあと思って。だったら、他《ほか》の誰《だれ》かが現場にいて、そいつが回収したんじゃないかって」 「それが、一樹?」 「恐《おそ》らく。度会さんは日課の夜|這《ば》い擬《もど》きに行く途中《とちゅう》で、偶然《ぐうぜん》にも名和三秋と、長瀬《ながせ》一樹の目撃者となったんじゃないでしょうか。それで、名和三秋《なわみつあき》から逃亡《とうぼう》した一樹《いつき》の身代わりとなるべく、死体を隠《かく》したと」  そして、旧|病棟《びょうとう》へ向かう姿をマユに目撃され、そのマユも、看護師さんに尾行《びこう》され。  つまり、看護師さん→マユ→度会さんの流れで目撃者が存在していたわけだ。齟齬《そご》が生じて事件をややこしくするわけである。 「一樹はなんで、松葉杖《まつばづえ》だけ持ち帰ったのかな?」 「片足飛びでトイレへ出かけたから、体勢を崩《くず》して階段を転げた。そう解釈《かいしゃく》してくれないかと、藁《わら》にも縋《すが》る思いで努力したんですよ、多分」  そしてそれは思わぬ協力者の手で違《ちが》った実り方をして、事件に多かれ少なかれ、影響《えいきょう》を及《およ》ぼした。 「そりゃあ一樹も怯《おび》えるでしょ、一晩|経《た》ったら死体が消え失せたんだから」 「あー分かる分かる。あたしの財布《さいふ》もこないだ、一晩経ったら中身が消え失せて、度数の切れたテレカだけ入ってたのよ」  怪奇《かいき》よね、うんうんと酔《よ》っぱらいの戯言《ざれごと》を現象にまで押し上げる看護師さん。  幸せ度数は、切れていない人だ。 「で、推理《すいり》む終《しま》い?」  僕はそこで、小さく肩を疎《すく》めた。 「憶測《おくそく》でも、判断し辛《づら》いことが残ってるんですよ」 「なに?」 「さっきも話に出ましたけど、名和三秋のこめかみに、大きな殴打《おうだ》の跡《あと》がありますよね」  看護師さんが目と記憶《きおく》を数秒泳がせ、「ああ」と合点《がてん》する。 「あれ、何なんだろうって。あの場所だけ背面の癒《あざ》の群れから独立してるんです。階段から落下した際にそこをぶつけて、死亡したのか。それともまだ息はあったけど、孫が非難されるのを危倶《きぐ》した度会《わたらい》さんがトドメをさしたのか、死んでいたけど念押しの一発だったのか。前者ならそのまま一樹なんだけど、後者だと度会さんが犯人になっちゃうんですよね」  或《ある》いは、一樹が度会さんを祖父と認識《にんしき》していて、殺人を犯《おか》した親族を庇《かば》った可能性も、一考の価値はある。ただ、どの過程でも名和三秋が死体になったことは変わりない。 「どっちにしても度会さんの反応から、大筋は間違ってなかったようなので安堵《あんど》しましたよ」  科学|捜査《そうさ》とか、明確な証拠《しょうこ》があげられない立場なので、一種の賭《か》けだった。  でも僕は、分は悪くないと踏《ふ》んでいた。 「まぁ、あれだけ錯乱《さくらん》すれば度会さんの目的は、果たせるんじゃないでしょうか。自分が名和三秋を殺したと言っても、疑われることは少ないでしょうね」  臆病《おくびょう》者の僕とは違って、大切な人間の罪を被《かぶ》ることに成功するわけだ。  僕も、その手伝いが出来て、感慨《かんがい》はある。  多分、僕はその為《ため》に、「おーい」  目の前で看護師さんの手が揺《ゆ》れた。何か喋《しゃべ》りかけていたらしい。  心臓の鼓動《こどう》を多少加速させながら、「どうぞ」と、促す。 「キミの話し方はさー、どうでもいいって心情が透けてるんだけど。倫理《りんり》の壁《かべ》が低めに設定されてたりするの? 一級犯罪者のあたしにも分け隔《へだ》てなく接する聖人気取りけ?」  皮肉に自虐《じぎゃく》を付け合わせて、僕の内面に探《さぐ》りを入れてくる。 「確かに殺人は罪。裁かれるもの。それは絶対です。でも、罪を認識《にんしき》する人間がいないなら問題なし。それが僕の、犯罪の捉《とら》え方ですから」  犯罪者は、感情の裁量ではなく、人聞の善悪として許されざる者。  そんなことを言ってしまったら、マユは。 「僕は殺人を犯した人間を認めているんです。だから、他《ほか》の殺人犯にも目を瞑《つぶ》りますし、私的な裁きにも目くじらは立てない。僕と、特にマユに対してこれ以上危害を加える意志がないなら、素性《すじょう》なんてどうでもいい事柄《ことがら》なんですよ。あなたが正義の毒殺者であれね」  今回に限っては、少し嘘《うそ》が混じっているけど。  途中《とちゅう》の時点で、マユへの脅威《きょうい》とは無縁《むえん》だと理解していたのに、僕は突《つ》っ込んだ首を引き戻《もど》さなかった。それは何故《なぜ》か、と自問自答する。  僕の動機。  何で、最後まで首を突っ込んだ?  それは度会《わたらい》さんの行動理念を知ったから。  僕と同じことをやっていたから、  少し応援《おうえん》したくなった。  本当に、それだけ?  本当に、それだけ。  酷《ひど》く優《やさ》しい、優しくなくて酷い理由。  思考に耽《ふけ》っていた看護師さんが、僕に対する感想を紡《つむ》ぐ。  感慨《かんがい》のない、カマボコ板のように平坦《へいたん》な言葉だった。 「キミってなんか白いよね」 「……白?」 「透明《とうめい》っていうのかな。特色がない」 「そんなに影《かげ》の薄《うす》い少年みたいですかね、腹は黒いってよく言われますけど」 「うん。明《あ》け透《す》けに黒い」  上手《うま》いことを言われた気分になってしまった。 「だからかな、………………………………………」  厳粛《げんしゅく》な雰囲気《ふんいき》で、看護師さんは時の歩みを静止した。 「……あの、だからなんでしょうか」 「続く格好いい文章を模索《もさく》してたんだけど、何故《なぜ》か給料の上昇に繋《つな》がってしまう……」  どんな生活観だよ。  折角、この人と生涯《しょうがい》に一度の、哲学《てつがく》と真正の場を設けかけたのに。ハリボテが内側から砕《くだ》かれてしまった。 「ていうかあなた、先生とキャラ被ってるんですよね」 「んだとゴラァ! 先生はアチキじゃ!」 「呼び方まで被ってるわけで、いいとこなしですね」 「もきゃーっ!」  テーブルの縁《ふち》に手をかけ、下手投げの真似《まね》。  そこでふと、正気を取り戻《もど》す。 「キミの先生ってなに? エロDVDの秘蔵コレクションを気前よく貸してくれる友達?」 「いえ、坂下恋日《さかしたこいび》さん」 「ほー坂下……のお嬢《じょう》さん? ウチの院長のご息女《そくじょ》?」 「ええ、現在は立派な臑齧《すねかじ》りに原始退行です」 「……ちょっと待て、キャラ変えるから」 「はぁ……」長いものに巻かれることにしたらしい。  この時点で十分痛々しさは確立されていた。 「いよし」と意気込み、胡散臭《うさんくさ》い微笑《ほほえ》みが生まれる。 「キミ、包帯が寄ってるじゃん。直してあげる」  半ば強引に頭を抱《だ》き寄せられ、頬《ほお》を舐《む》められた。 「………………………………………」  流石《さすが》に二度目なので、無言劇の役者として頬が強張《こわば》るだけだった。 「どんな意味があるか、説明できるものならして下さい」 「頬舐めキャラで頑張《がんば》ってみようと」 「妖怪《ようかい》アパートの住人になった方が早いですよ」  そう言ったら、もう一度舌を這《は》わされた。  三度目は、舌の熱さに感心した。  こうして、僕の答え合わせは、点数が明示されないまま自然|終了《しゅうりょう》する。  だけど僕と彼女にとっての事件は解決した。  それが、僕にとっての模範《もはん》解答だった。  帰路に就《つ》いた看護師さんと袂《たもと》を分かち、マユの下《もと》へ戻《もど》る。  物静かだけど、健《すこ》やかさの控《ひか》えめな寝息《ねいき》を立てるマユ。  その傍《かたわ》らへ帰ると、どうしてか言い切れない。  ベッドの脇《わき》に立ち、カーテンを少し開く。  鼠《ねずみ》色に寄った黒空が窓を彩色《さいしき》していた。  冷気が窓枠《まどわく》から染《し》み出て、顎《あご》の下や額をなぞる。吐息《といき》が漆黒《しっこく》を漂白《ひょうはく》し、そこに指を宛《あてが》うと指紋《しもん》が綺麗《きれい》に型取りされた。  カーテンを、視界から取り除く。  そうすると、左|斜《なな》めに月が姿を露出《ろしゅつ》した。  月光は涙腺《るいせん》に波の刺激《しげき》を与《あた》えてくる。感傷的じゃない、生理的な涙《なみだ》が流れそうになる。  頭の上に月がない夜を迎《むか》える暮らしを強要された時もあった。  だけど見上げれば、空だけは何処《どこ》にでもあった。  木造の空、コンクリート製の空、石造りの空。  そこに揺《ゆ》るぎはなく、超然《ちょうぜん》と、僕らを覆《おお》っていた。  そして地に足の着かないまま眺《なが》める空は、容易《たやす》く触《ふ》れてしまえそうだった。  手の平を窓に貼《は》ると、月はいなくなった。  空も、紅葉《もみじ》型に暗闇《くらやみ》を切り取られる。  その時確かに、僕の手は空に届いていた。  正しく明日に向かうものを、僕の手が覆い隠《かく》した。 [#改丁] 六章終始『僕がぼくでないために』 [#ここから3字下げ] まーちゃん、世界で一番きらい。 [#ここで字下げ終わり]  僕よりか、マユが待ち望んでいた退院の日が、事件|終了《しゅうりょう》から五日後だった。  着替《きが》えの詰《つ》まった紙袋《かみぶくろ》の一番奥に、先生から借り受けた漫画《まんが》の半身を詰《つ》めて隠《かく》す。返済額をこれ以上増やさない為《ため》の処置だ。  種類は少ないながら重量のある私物を纏《まと》め、すっかり手の延長になってしまった松葉杖《まつばづえ》を掴《つか》む。足の包帯が取れる日は後、二、三週間といったところだけど僕はマユの都合に合わせて退院することにした。当初の予定より延びたので、これでもまーちゃんはご立腹なわけだが。  馴染《なじ》み深さを夏の雨ぐらい微量《びりょう》に募《つの》らせた病室。見渡《みわた》しても人数は二で、隣《となり》のベッドは情感のない清潔さを保っている。度会《わたらい》さんの私物は細君《さいくん》が片《かた》して、寝床《ねどこ》は次の患者《かんじゃ》待ちに万全だ。ただ、ぺんぺん草ではないけど花瓶に枯《か》れた白い花が取り残されていた。切なくはない。当の度会さんは警察で身代わり逮捕《たいほ》され、一樹《いつき》は柔和《にゅうわ》な笑顔《えがお》で生活を続けている。度会さんの願望は絶頂の形で終焉《しゅうえん》したわけだ。これにて一件落着、と時代劇なら締《し》めくくるぐらいに。  松葉杖で一歩踏《ふ》み出す。高校生は謙遜《けんそん》のない心ばかりの皮肉めいた笑顔で「じゃっ」とだけお見送りの御《お》言葉を進呈《しんてい》して下さるので、僕としても「二度と会わないといいですね」と相手を傷つけないように丁重なお返事をするしかない。結局、最後までこの高校生が僕より年下、上、平行線なのか分からなかった。どうでもいい未満の事柄《ことがら》なので、それが最良とした。  中年さんは、今日も己《おのれ》の基本と欲望に忠実に、色はさておき顔は良い患者《かんじゃ》や性格は二の次に容姿の優《すぐ》れた看護師の撮影《さつえい》に外出中だ。出かける前に、僕に饒別《せんべつ》の品を譲渡《じょうと》するかと思いきや蚊《か》も唖然《あぜん》とする紙切れのような音声で『君は……彼女いるから……退院、だね』と文章を前・中・後編の三本立てにし、その上で中編を省略されてしまった。僕としても『頑張《がんば》って下さい』と万感の思いで励《はげ》ますしか道はなかった。  そんなわけで、絶対に惜《お》しみたくない別れを経験した僕の精神は積み木ぐらい安定を欠いて成長を遂《と》げた。震度《震度》二の地震や、扇風機の中風が致命傷の虚弱体質な心根だけど、倒壊しても各パーツが破損し辛《づら》いことに、僕の美徳|擬《もど》きがある。  廊下《ろうか》に出て、後はお馴染《なじ》みのいどう、かいだんと洒落《しゃれ》込みたいけど、そっちは掃除《そうじ》中ですとフラグ設定に遮《さえざ》られるので、渋々《しぶしぶ》別の場所を目指した。理由以外は嘘《うそ》じゃない。  病《や》めてない患者を辞《や》める前に、面会室を利用させてもらう。  今度は、僕が相手を誘《さそ》った形で。 「ささっと終わらせて、マユを迎《むか》えに行かないとね」  彼女の事件は終わったのだから。  後は、僕が終わらせなければいけない事件に、触《ふ》れる必要がある。  前日に病院の公衆電話を利用し、暗記していた電話番号で長瀬透《ながせとおる》を呼び出していた。今日は学生と社会人の憂鬱《ゆううつ》な月曜日なので、長瀬は服装規定に違反《いはん》していない制服で現れた。 「まさか平日に呼び出されるとは考えてなかった」 「あ、そうなんだ。毎日が建国記念日の身分だからうっかりしてたよ」 「つーか、なにッスかその顔と頭」 「野生に返ろうとしたらマントヒヒに追い返された」 「あのねぇ……。相変わらず、馬鹿《ばか》なことを言って、やって、変なやつ」  お前の祖父《じい》さんに娘《むすめ》はやらんと突《つ》っぱねられたんだよ。いらねえよボケジジィ孫くれよって喧嘩《けんか》になったんだよ。嘘《うそ》だけど。  長瀬は心底まで嫌《いや》じゃないけど体面的に仏頂面《ぶっちょうづら》という、複雑《ふくざつ》な面持《おもも》ちで僕の隣《となり》に、スカートを押さえながら腰《こし》かけた。……いや、何で隣人《りんじん》になってるのさ。向かい側のソファにお客様はお招きしてないですよ。  僕の目線の訴《うった》えを露《つゆ》知らず「どっこいしょ」と鞄《かばん》を足下《あしもと》置き、深々とだらけきる長瀬。 「これで私も皆勤《かいきん》賞を逃《のが》したッスね」 「そりゃ悪いことをしたね」 「ううん、良いことッスよ」  長瀬の顔つきから仏が去り、育ちの良さが浮き出た笑《え》み被《かぶ》る。 「喧嘩《けんか》別れかと思ってたのに、電話番号まで憶《おぼ》えていて、かけてくるんだから」 「用事があったからね」  なかったら、もうかけない。 「で、その用事ってなに?」 「この前、伝え忘れたことがあって」  肝心《かんじん》なことだったのに、うっかりしていた。  長瀬は、「ん? ん?」と、楽観な内容に期待しているのが透《す》けて分かりやすい。  けど、僕はそれに応《こた》えない。  深呼吸し、彼女に、警告を加えた。 「マユにこれ以上危害を加えることは、許さない。それだけ言い忘れてた」  真に不覚であった、面目《めんぼく》ない。  長瀬が惚《ほう》ける。伸《の》びきった足や背もたれの上部にかけた肘《ひじ》が滑稽《こっけい》に映る。  数秒の無言を経て、長瀬は瞬《まばた》きその他|諸々《もろもろ》を再活動させる。 「えーと、何のことッスか?」 「長瀬透。マユの頭を花瓶《かびん》で殴《なぐ》ったのは、君だろ?」  教師のような注意口調に、長瀬《ながせ》が苦い表情で嘆息《たんそく》する。  建設ではなく、解体作業だから気が滅入《めい》るのだろう。 「そう言われても、解無《かいな》しとしか答えようがないの。まーちゃんの怪我《けが》? なにそれって感じ」 「マユはね、正面からぶん殴《なぐ》られて気絶もせず、犯人を知らないって言うんだ。それが何を意味すると思う?」 「透《とおる》が推理《すいり》小説の読みすぎってこと?」 「マユが普通《ふつう》じゃないってことだよ。特に、まーちゃんと呼ぶ相手にはね」  僕とか、長瀬とか。  長瀬の左|眉《まゆ》が微細《びさい》な反応を示す。隠《かく》し事《ごと》の不得手《ふえて》な、彼女の美しい癖《くせ》だ。  長瀬が姿勢を正し、膝上《ひざうえ》のスカートを軽く払《はら》う。続けてどうぞ、と幻聴《げんちょう》を耳にしたので長瀬の返信を待たずして、僕は創作童話を披露《ひろう》した。 「昔々、御園《みその》マユが監禁《かんきん》から解放されてから、また小学校に行き始めると旧友の級友が何人も声をかけました。そこで、一つ不思議な出来事が生じてしまったのです。彼ら彼女らが『まーちゃん』と呼ぶ度《たび》に、御園マユは奇形《きけい》な言葉で確認《かくにん》をするではありませんか。そう、彼女は『まーちゃん』と呼んでくれる人、『みーくん』だけを求めるようになってしまっていたのです。当の『みーくん』は、『まーちゃん』のことなど何一つ溜えていないのに。上辺《うわべ》だけ心配をしていた友達はその奇行に辟易《へきえき》し、日焼けした肌《はだ》が剥《む》けるぐらい容易《たやす》く上《うわ》っ面《つら》を取り捨て、マユの友達であることをやめてしまいました」  序章を朗読《ろうどく》し終える。次の一章を語る時間は用意されていないので、そこで区切る。  長瀬が、物々しい態度で意志を暴発させたそうにしていたので、発言を待つ。 「今更《いまさら》、そんなことへの批判? そう呼ばないと、迷惑だから喋りかけないでくださいって対応するようになっちゃった子と仲良くし続けうって言うの?」 「友達に非があると言ってるわけじゃない。マユが全《すべ》ての友達を記憶《きおく》から締《し》め出して、過去形でさえ存在させなかったことも、原因の一つではある。けど、そんなことは今の問題じゃない」 「つまり、まーちゃんって呼べば記憶が滅茶苦茶《めちゃくちゃ》になるから、その呼び方を使ってる私がやったって言ってるわけ?」 「うんそう」と、察しのいい長瀬の怒《いか》り心頭《しんとう》を受け流しながら肯定《こうてい》する。 「意図したわけじゃなくて、見舞《みまい》に訪《おとず》れて、何かしらのやり取りがあってその最中、花瓶《かびん》で突発《とっぱつ》的に発火した怒りを代弁したんじゃないかって、僕は証拠《しょうこ》もなく考えてる」  そして事実なら、僕の入院は、長瀬一家に翻弄《ほんろう》されっぱなしになったことになる。  長々と空気を追い出し、ざっと髪《かみ》を掻《か》き上げ、頭皮にも爪《つめ》で赤い線を描《えが》く。  そして億劫《おっくう》そうな、長瀬の物言い。 「否定はしないッスよ」 「おお、潔《いさぎよ》い犯人じゃ」 「ここで否定したって、『みーくん』は私がやったと思い込むんでしょ?」  ふむ、嫌味《いやみ》の使いどころはこの一年で学習したみたいだ。独学なら賞賛すべきか。 「それで早計に決めつけて、私を許さないわけ?」 「あたりきあんどしゃりき。マユはこれ以上、傷ついちゃいけないんだ」 「そんなにまーちゃんが大切?」  侮蔑《ぶべつ》な意志を節々に潜《ひそ》ませた、長瀬《ながせ》の問いかけ。 「傍目《はため》で見て分からんとは、僕たちの表現もまだ甘いわけだな」 「透《とおる》本人のことを必要としてるわけじゃないのに?」  長瀬の凶器攻撃《きょうきこうげき》。一昔前の僕なら怯《ひる》み、自暴自棄《じぼうじき》に酔《よ》いどれする高校生に成り下がっていた。  だが君の祖父《じい》さんの強襲《きょうしゅう》で身体《からだ》を、君の妹さんの殺人で絆《きずな》を鍛《きた》えられた僕にとって、痛覚を遮断《しゃだん》することなど造作もなかった。 「透のやってることって、まーちゃんのお人形でしょ? 馬鹿《ばか》みたい」  お、物語的な言い回し。長瀬も読書好きだったよな。 「それで、長瀬の欲するは『透』という名の人形といったところかな」 「一緒《いっしょ》にしないでよあんなのと」あんなのだとゴルァ。巻き舌全開で文句を投書する暇《ひま》もなく、長瀬が続きを垂《た》れる。 「まーちゃんは透を見てないじゃん、透じゃなくたっていいじゃん! 私は透って呼ぶ方が良いかと思ってそうしてるだけだよ、じゃあ名前言おうか? ××、××、××って呼ばれたくないんでしょ? こんなの単なる遊びで、まーちゃんなんかとは全然|違《ちが》う。私は透本人が好きで」「ダウト」  語《かた》りが騙《かた》りになった段階を、僕は見逃《のが》さなかった。どっちでもよかったんだけど。  熱弁を後数秒持続させれば涙《なみだ》という演出を施《ほどこ》しそうになっている長瀬の眼前に、手の平を晒《さら》し、彼女の時間を静止させた。  僕は陰気《いんき》に快活、不気味に明朗《めいろう》、にこにこにんまりにやーっと微笑《ほほえ》んで、長瀬を否定した。 「さて、それはどうだろう」  一拍遅《いっぱくおく》れて、大演説の反動で長瀬の肩《かた》の上下が開始する。僕が止められる時間は、文章の単位でほんの一行か二行のようだ。 「一年前を否定はしないよ。長瀬も僕のことを好きでいてくれたと自惚《うぬぼ》れてるし、僕も長瀬のことが好きだった。そこは良い、お役所で判子が貰《もら》える。けど、今は恋慕《れんぼ》に偽《いつわ》りありだ」  自身の気持ちを嘘《うそ》だと否定された。  乙女《おとめ》長瀬さんは、そう憤慨《ふんがい》なされた様子だ。 「なんで、そんなこと言うの?」  静寂《せいじゃく》な怒気《どき》。それでもまだ、涙《なみだ》は流さない。  なんでか。追及《ついきゅう》されて、長瀬《ながせ》は耐《た》えきって納得《なつとく》して、色恋沙汰《いろこいざた》のお話を再開できるのか?  試《ため》してみるか、一応、  七並べで配布された手札が全《すべ》て、ジョーカーであった時のような。  絶対にカードを消費できるのに、絶対に勝者にはなれない、孤立《こりつ》と虚構《きょこう》の戯《たわむ》れ。  それと大差ない、勝てない切り札を僕は場に開いた。 「まーちゃんとみーくんがどうして僕の父親に『選ばれた』か、その経緯《いきさつ》を知ってると言ったら?」  長瀬の様相が、一変どころか一片さえ残さず粉々になった。  蒼白《そうはく》の肌《はだ》と哀《かな》しい狼狽《うろた》えが相乗効果で映《は》える。 「僕の父親と、長瀬は面識があるはずだ」  長瀬は首を左右に、必死に振《ふ》る。僕は滞《とどこお》りなく続けた。 「話を聞いた状況《じょうきょう》が、思考を停止していることが前提での劣悪《れつあく》な作業中だったんでうっかり忘れてたよ。そう、長瀬|透《とおる》。この前、病室でマユの友達だったって言った時にようやく思い出した」  僕は高校で出会う前から、その名前を知っていたんだ。 「厄介《やっかい》だったよな、僕の親父《おやじ》は。外面だけは正常を保っていたんだ。眼球も挙動も、家族以外には真っ当なものを装《よそお》って覆《おお》い隠《かく》していた。街の有力者だったから、顔も広く知られてたし」  肩書《かたが》きを名乗れば、不審《ふしん》者から程遠《ほどとお》くなる雰囲気《ふんいき》が親父にはあった。 「長瀬は昔、菅原《すがわら》っていうかみーくんが好きだったんだろ? 僕の親父が電波な文章を交えて教えてくれたよ。長瀬の願いを叶《かな》えてやったってことも、その時話してた」 「違《ちが》う! 違うから!」無視。 「誘拐《ゆうかい》事件が起きる数週間前、長瀬は優《やさ》しい風貌《ふうぼう》のおじさんと出会った。当時、事件と無縁《むえん》だった田舎《いなか》街は変質者なんて認識《にんしき》が子供に植え付けられてなかった。それに街の会報で見た顔だから、多少の尻込《しりご》みはあっても会話することは危険じゃないと判断した」  まるで僕が長瀬自身であるかのように、断定して語《かた》り部《べ》となる。  何割が事実か、模範《もはん》解答と見比べて採点《さいてん》することは不可能でも、この際長瀬にとっては骨組みだけが重要だろう。 「長瀬は、みーくんにべったりのまーちゃんが嫌《きら》いだった。個人としてはともかく、存在には決して好意的じゃなかった。早い話が嫉妬《しっと》してたわけだ」  長瀬の否定はもうなく、ただ項垂《うなだ》れている。そこに同情さえ生まれない僕は、淡々と話を継続《けいぞく》することしか出来なかった。 「マユが如何《いか》に生意気で鬱陶《うっとう》しい子か、それはもう私怨《しえん》の限りを尽《つ》くしておじさんに愚痴《ぐち》ったんだろう。何回か出会い、何度でも優しげに応《こた》えてくれるおじさんに、長瀬は懐《なつ》いたわけだ」  それが、事件の契機《けいき》。  嘘《うそ》の始まり。 「でも、そのおじさんは選別中だった。苛《いじ》めがいのある子を。そこに、長瀬《ながせ》からの思いがけないご一報があったわけだ。それも、名前をあげられた子は自分と仲のいい人の娘さんだった。これは天啓《てんけい》だ、引力だ、運命だっと電波をアンテナバリ3で受信成功」  したかは、定かじゃない。演出は派手に行こう。 「教育しなおしてあげる。そう約束したわけだ、僕の父親は長瀬|透《とおる》と」  そして数日後、約束は果たされてしまうことになったわけだ。 「何故《なぜ》マユと、それに偶然《ぐうぜん》巻き込まれた菅原《すがわら》が失踪《しっそう》したのか。長瀬は気付き、恐《おそ》れた。自分が非難されることを。だから、口を噤《つぐ》むしかなかった」  長瀬は、孤独《こどく》に罪を隠《かく》し通そうと決意したんだ。 「最後までよく黙《だま》り通したもんだって素直《すなお》に感心するよ。長瀬は良心もあるし、罪の意識も感じられる普通《ふつう》の女の子だから、堪《た》え忍《しの》んで誰《だれ》にも感づかせないことに、どれほど神経を酷使《こくし》したか、想像するだけで敬意を表する」  ある意味では、僕らよりも心を消耗《しょうもう》してたわけだし。 「事が解決しても、幸運なことに長瀬は糾弾《きゅうだん》されなかった。する人間が皆《みな》一様に口なしか、記憶《きおく》なしの状態だったんだから。安堵《あんど》したんじゃないかな、睡眠《すいみん》時間は増加しただろ」  長瀬は無反応を貫《つらめ》く。今は、彼女の方がよほど人形めいている。  僕に専属の音楽家がいたなら、鎮魂歌《レクイエム》でも奏《かな》でてもらうほど、長瀬から魂《たましい》が抜け出ている。 「ところが六年後、ひょっこりと第三の人物が現れた。ワタクシ、不肖《ふしょう》透こと僕ですね」  僕は事件の後、叔父《おじ》の名字を使うように半ば強制された。長瀬が気付かなかったわけだ。  そりゃあ、知りたくもなかったろう。  お互《たが》いに。 「一年前に素性《すじょう》を知った時、僕が知らないって結論づけたんだろ? 当事者で、長瀬透のやったことを知り得ていれば絶対にその点について話をするはずだって。うん、それは微妙《びみょう》に間違《まちが》ってたわけだ。で、一年後。僕がまーちゃんと付き合い始めたことを知って、また疑いを持ったわけだ。だから探《さぐ》りを入れる為《ため》に、妹の見舞《みまい》にかこつけて僕の下《もと》へまた現れた」  そしてそれが、致命《ちめい》的な蛇足《だそく》となった。  随分《ずいぶん》、昔語りになってしまったけど、ようやく動機の説明は帰結した。  ……それだけで構成されているわけでもないんだろうけど。  見舞に行って、相変わらずみーくんみーくん騒々《そうぞう》しいマユに手が出たということは。  そして、ノートに書かれた誰《だれ》かに宛《あ》てた『ごめんなさい』と、もう一つの言葉。  けれど、その点については何一つ言及《げんきゅう》しなかった。  その感情のいざこざだけは綺麗《きれい》に、円満に終了《しゅうりょう》させたかったから。  ぼくと長瀬《ながせ》は好き合ったまま、別れたのだと。  長瀬の顎《あご》が糸で引かれたように、持ち上がる。  隣《となり》に腰《こし》かけている僕を見つめられない、無能な瞳《ひとみ》。  長瀬の顔は、退行していた。  幼少期に。罪を背負った時に。 「なんで、誰《だれ》にも言わないの?」  摩耗《まもう》しきった心の絞《しぼ》り滓《かす》が紡《つむ》いだ、手ぶらな問いかけ。  血縁《けつえん》とは、意外に強固な因縁《いんねん》が眠《ねむ》り、遺伝するのかも知れないと、思考が交差した。 「僕には言えない事情があるから」  マユの記憶《きおく》の呼び水は、歓迎《かんげい》できないもので。  それに長瀬がマユを指名して菅原《ずがわら》も巻き込まれたからこそ、僕は今こうしてマユと幸せになってるわけで。こういうの、運命と称《しょう》していいのかな? 「制服着てるんだから、昼からは学校に行くつもりなんだろ? お勉強|頑張《がんば》って」  鞄《かばん》を握《にぎ》らせ、ほつれた長瀬を立たせる。 「はい、自分の足で立って。僕は長瀬を支えられないんだ」  長瀬の歩行速度は、三本足の僕より遥《はる》かに低速極まりなかった。  歩いているという認識《にんしき》も、満足に脳味噌《のうみそ》へ伝達されていないようだった。  面会室から出ても、長瀬は薄《うす》ぼんやりと、焦点《しょうてん》の合わない視線を漂《ただよ》わせている。  そんな、頭の回線が焼き切れてしまった長瀬を、僕は置き去りにする。  ……別れ話は済んだのだから。  最後の挨拶《あいさつ》の内容は、唇《くちびる》に委託《いたく》した。 「ばいばい。家族を大切にね」 「みぃぃぃぃきゅぅぅぅぅん!」  自分の個室内を忙《せわ》しなく俳徊《はいかい》していたマユが、扉を開けて現れた僕に狙いを定めて飛びついてくる。帰《かえ》り支度《じたく》は万全らしく、既《すで》に鞄《かばん》を肩《かた》にかけていた。 「別に僕はパトラッシュとか飼《か》ってないから、そんなに悲壮《ひそう》感|溢《あふ》れた呼び方しないの」  終《しま》いには裸《はだか》の天使とか降臨《こうりん》しそうだ。不法|侵入《しんにゅう》ということで追い返すけど。 「やっと帰れるね。まーちゃん待ちくたびれちゃった」  僕の頬《ほお》に貼《は》り付けられているガーぜには未《いま》だに一言も言及《げんきゅう》なく、マユが微笑《ほほえ》む。  マユは両手と頭部。僕は右|肩《かた》と顔面各部とやっぱり頭部を負傷。何を目的に病院の世話になったか見失いそうな、僕らの退院姿がマユの後方、テレビのブラウン管に鈍《にぶ》く映っていた。 「クリスマスに間に合って良かったねー」 「うん? うん、そだね」  三|歳《さい》の時点で、母にサンタクロースの実体を逐一《ちくいち》解説されて夢が切り取られた行事か。 「こんなとこだとサンタさんも来そうにないし」  マユが愚痴《ぐち》る。けれど案外あの白髭《しらひげ》の爺《じい》さんも後学《こうがく》の為《ため》にこの部屋ぐらいなら覗《のぞ》くかも知れない。彼とて高齢《こうれい》なのだから、入院する可能性は考慮《こうりょ》すべきだろう、とあの母にしてこの子あり、幻想《げんそう》の欠片《かけら》もない感慨《かんがい》を湧《わ》かしてしまった。  それはともかく、マユは未《いま》だに空飛ぶ馴鹿《となかい》をノンフィクションと信奉しているのか。そして嫌《きら》っていないそぶりと口調から、『生物』としては捉《とら》えていない。 「サンタか……。まーちゃんは欲しいものとかあるの?」  礼儀《れいぎ》として尋《たず》ねておく。その物欲を叶《かな》えられるかは微妙《びみょう》なのだが。  だけど、マユは首を緩《ゆる》やかに横へ振《ふ》った。 「ううん、もうないよ」  マユの否定は完全だった。一寸の迷いもない。 「去年まではちゃんと毎年お願いしてたけど、今は何にもないよ」  みーくんいるもんね、と僕に再度|抱《だ》きつく。  その一連の言葉によって去来した感動に感化され、僕は歓喜《かんき》の涙《なみだ》流して微笑《ほほえ》んだ、と上手《うま》くいくわけがないので、「そっかそっか」とマユの背中を撫《な》でるだけだった。  窓の外に目をやると、今にも初雪を観測しそうな、澱《よど》んだ雲の覆《おお》う空が風景画の一部を形作っている。タクシーを利用する僕らはともかく、長瀬《ながせ》は傘《かさ》の用意をしていなかったけど、大丈夫《だいじょうぶ》だろうか。 「………………………………………」  色々、思い返しても。  以前に僕をしかめ面にした苦み走りは、もう失せていた。  長瀬|透《とおる》は僕にとって、既《すで》に思い出に記載《きさい》されきってしまったわけだ。  僕が遭遇《そうぐう》した、幾多《いくた》もの屍《しかばね》と同様に。  思い出って、そういった意味では絆《きずな》の墓地《ぼち》の役目も果たしてるんだよな。 「みーくんは昔、いないって言ったけど。やっぱり、サンタさんはいるんだよ」  マユの、自身の信心を誇《ほこ》る笑顔《えがお》。  菅原《すがわら》とは感性が噛《か》み合わないけど、思考は団栗《どんぐり》の背比べなのかも知れない。 「うん。きっと、いるんだよ」  嘘《うそ》だけど、なんて母親の真似《まね》事はしなかった。  そうして、マユと横並びに、手は繋《つな》がらないままに病室の外へと歩き出す。  みーくんとの絆だけを生の礎《いしずえ》とする少女と共に。  ぼくが望んだ僕として。 「さ、帰ろうか」  僕たちの居場所に。  帰りたいと、誰《だれ》かが呟《つぶや》いた。 [#改丁] [#ここから3字下げ] あとがき [#ここで字下げ終わり]  皆《みな》様の誤解を招いているようなので改めてご説明しますが、一巻の帯にあった問題作という表記の意味は『こんな物ウチに送りつけてくんな!』という編集部の意志の表れです。所謂《いわゆる》、宛名《あてな》不明の小包の処理に困る大企業的なアレなのです。多分嘘《うそ》だと思います。  というわけで、あとがきです。初めましてとこんにちは。  さて本作ですが、一巻目なのに『遂《つい》にクライマックス!』と煽《あお》られてたり『第一部・完』と編集さんのお茶目で尻《しり》に付け足されていたら、それはそれで美味《おい》しいなぁと確認《かくにん》してみたところ、どちらもなかったようなので続編が出版されることとなりました。  さてこの作品、何が一番困ったかって、続編を出すという行為《こうい》、構想に苦悶《くもん》しました。そもそも、小説大賞に応募した際も賞を取ることを夢見て賞金どう遣うかなどと、狸《たぬき》の皮算用どころか無人島で、合コンに誘《さそ》われた時の上手な立ち振《ふ》る舞《ま》いを練習するぐらい夢見がちだった過去の自分を、許されるなら脳味噌《のうみそ》コネコネしてやりたいわけですが閑話休題《かんわきゅうだい》。つまり、作品が出版されるという事柄《ことがら》を欠片《かけら》も意識していなかったわけで、そりゃあ苦労しました。  そのような本書の作製に携《たずさ》わってくださった編集の御二方《おふたかた》には感謝の言葉しかありません。前巻で書いた通りに今後があったことに胸を撫《な》で下ろし、そしてもう一度、今後もよろしくお願いします。  また、挿絵《さしえ》を担当して下さる左《ひだり》様。初めてお会いした時はその年齢に驚《おどろ》かされました。挿絵や表紙絵の下書きが届くのを、毎回楽しみにしています。ありがとうございます。  それから、編集部に打ち合わせに行った際、お茶を出してくれる方々。名古屋《なごや》駅の近場にあるたこ焼き屋の店員さん。『印税の振《ふ》り込みはまだか』と借金の催促《さいそく》の如《ごと》く問いつめてくる両親。他《ほか》にも多数の方が、今の自分を形作る要素であったと思います。多謝。  そしてこの本の重みを感じ取って下さっているあなたに、最上の感謝を。  もう一度、ありがとうございました。 [#池付き]入間人間《いるまひとま》 [#改丁] 底本:電撃文庫「嘘《うそ》つきみーくんと壊《こわ》れたまーちゃん2 善意《ぜんい》の指針《ししん》は悪意《あくい》」 (株)メディアワークス    二〇〇七年九月二十五日 初版発行